10月3週目:いつも喜んでいなさい

 今週も無事に終えることができてとても感謝です。東京では、今週は、ずっと雨でした。雨の日は、洗濯物が乾かなくて困りますよね。そんな雨の中でも、今週は、毎朝仕事前に教会に行くことができました。私は、そのことをとても嬉しく思っています。仕事前に教会に行くことが好きです。

 今週は、教会で、仕事のことについて祈りました。「祈る」というのは、神様に向かって祈ります。たとえば、キリスト教なら、「神さま、お名前を賛美します・・・」などの言葉で始めて、神さまに向かって祈りを捧げます。どうして祈るのかというと、自分の力ではどうにもならないことがあるからです。

 たとえば、今、私は、自分の力ではどうにもならない問題にぶつかっています。自分の仕事環境が来月から変わるからです。今までよりも大きな仕事を任されることになりました。そのため、「新人の私に仕事ができるのだろうか?」と不安で一杯です。自分の力でどうにかなるものではないですが、神さまの助けを信じ、来週も喜んで歩んでいきたいと思います。

 来週もあなたに神さまの祝福がありますように。お祈りしていますね。

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

(テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節)

10月2周目:群盲象を撫でる

 今週の月曜日は、お仕事がお休みで買い物に行きました。買い物を終え、ふと、立ち寄った映画館で『三度目の殺人』という映画を観ました。

 物語の主人公は、福山雅治が演じる弁護士の重盛です。ある日、重盛は、司法修習生時代の同期・摂津から三隅という容疑者の弁護を頼まれます。三隅は強盗殺人の容疑者です。この三隅は、従業員として働いていた工場の金に手をつけ、クビになります。その後、彼は、金を奪う目的で工場の雇い主を殺害した容疑で逮捕されました。摂津は、その容疑者・三隅の発言が二転三転するために、重盛に助けを求めたのです。

 「発言が二点三点」するとは、たとえば、初めて三隅と重盛が面会した時に、次のような会話があります。

重盛は助け船を出した。

「殺そうと思ったのは、お酒を飲む前?それとも飲んでヤケになっちゃって?」

三隅はしばらく考えるようになった顔になったが、すぐに重盛の"絵"に乗ってきた。

「飲んでヤケになって」

これで少なくとも計画的な犯行ではないと印象づけられる、と重盛はさらに訪ねようとしたが摂津が「あれ?」と声をあげた。

「全開聞いた時は"前から殺してやろうと思ってた"っていわなかったっけ?」

すると三隅は困惑を浮かべて首をひねった。

「あ・・・・・・そうだったかな?」

摂津はチラリと重盛に視線を送った。その目は"な? こういうことなんだよ"と語っていた。

 物語を通して、重盛は、三隅のこのような発言に振り回されます。三隅は本当に殺人を犯したのか。なぜ殺人を犯したのか。情報を集めるほど、当初は平凡に思えた事件の全体像が重盛にはわからなくなります。さらに、三隅とのやり取りや事件の調査を通して、重盛自身の職業観や正義感や家族観も揺らぎはじめます。

 物語の中で、特に印象に残ったのは、「群盲像を撫でる」という言葉でした。物語の中盤には、被害者の家族についての重要な事実が発覚します。被害者の娘・咲江が自分の家族の中で起こった出来事を重盛に打ち明けたのです。重盛は、咲江の証言を踏まえてもう一度事件全体を整理します。その日、重盛と摂津の間で次のようなやり取りがあります。

「あのさ、中国だったかどこだったかのさ、古い小話で、目の見えない人たちがみんなで象に触るっていう話があるんだけどさ」

「ああ、鼻に触ったヤツと耳に触ったヤツが、自分のほうが正しいって言い争う話しだろ」

[・・・中略・・・]

「そう、それそれ」と摂津がいって、ぼそりとつぶやいた。

「今、おまえ、なんかそんな気分じゃない?」

「そうかもな。で、俺は今、どこ触ってんだろうな」

そういって重盛は目を閉じた。闇のなかに手を伸ばして、見えない動物を触っている。

「裁いたのか、救ったのか」

重盛は弁護になって初めて、事件を"理解"できずにいることを自覚していた。

"群盲象を撫でる"というのは、目の見えない人達が象の足や鼻、耳をそれぞれ触って異なった解釈をするというものです。物事や人物の一部だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまうことのたとえですね。この物語は、この言葉がテーマになっていると感じました。

 物語の終盤、重盛は、咲江の証言を得て「三隅は咲江を救うために、咲江の父親を殺した」という確信を強めます。三隅の罪に対する判決の後、重盛は自分の確信を三隅に話します。しかし、三隅の反応は空疎で、彼の表情からは何も感じ取ることができませんでした。三隅と重盛の最後のやり取りの一部は、次のようなものでした。

 だが重盛は必死ですがりつきたくなる衝動と戦っていた。ひとり相撲だったというのか。突き放そうとしているのか。本当に三隅は殺人の衝動を生まれつき持った狂人なのか。それとも殺人の罪をかぶっただけ男なのか。

重盛は確認せずにはいられなかった。

「それは、つまり、僕がそう思いたいだけってことですか?」

「だめですよ、重盛さん・・・・・・」

そういって三隅は小さく鼻で笑ってから楽しげに続けた。

「僕みたいな人殺しに、そんなことを期待しても」

 この映画を観終わった後も、まだすっきりしませんでした。この映画の感想を無理やり言葉にしてみると、「わかったつもりになる」ということの怖さが思い浮かびます。普段の生活の中で「これでわかった!」と確信を持つことがあります。私だったら、キリスト教信仰において、人間関係において、仕事において「わかった」と確信を持つことがあります。特に「この人は◯◯だから」と人を分類することがよくあります。一体、この種の「わかったつもり」とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。

 せめて、自分の「わかったつもり」があなたを傷つけることのないように祈っています。

10月1周目:患難さえも

 4月に入社してから、半年が経過しました。仕事の量と責任が増えてくるのと同時に、「自分には無理だ」「嫌だ。やりたくない。」という気持、恐れの気持が出てきています。そういう時には私は神様に祈ります。

 教会では、「神の恵み」という言葉を聞くことがあります。病気が癒されたり、仕事がうまくいったり。大学に合格した時。自分の願いが叶えられたり、自分の状況が好転する時に使うことが多い印象を受けます。たしかに、それらも「神の恵み」なのかもしれません。

 しかしながら、目も当てられない失敗や自分の力ではどうにもならない課題を抱えて、はじめて真剣に神様を求めて祈るような気がします。今自分が直面する困難も、そのことで神様に祈れるのなら「神の恵み」なのかもしれません。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(ローマ人への手紙 5:3-5:5)

 今は、「患難が恵だ」とは、とても思えないけれど、「あぁ、駄目だ。駄目だ。私はこんなに駄目だ」と落ち込んでいては、環境の奴隷です。どういう環境にあっても、喜んで絶えず祈って、感謝しながら進むことができますように。

9月4週目:音楽を聞こう

 こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。もう10月ですね。こちらでは、夜に鈴虫の声が聞こえて秋を感じます。

 私にとって今週は、くたくたになった一週間でした。というのも、職場で環境が変わり、仕事が増えて緊張を感じることが増えたのです。そういうわけで、今週は家に帰ると疲れてぐったりしていました。

 何曜日だったか、へとへとで帰宅して、ふと「音楽を聞こう」と思う日がありました。そこで、たまたまYoutubeでお薦めされた「長崎は今日も雨だった」を聞きました。前川清さんの曲ですが、お薦めされたのは、藤圭子さんのカバーでした。

 ゆったりとした曲調と低くて良く通る彼女の声とを聞いて落ち着いた気持になり、疲れが癒やされたような気がしました。

 翌朝、いつも通り教会に行き、会社付近のカフェで朝食を摂りました。店内では、"I Do Adore"という曲が流れていました。女の子が散歩をしているような曲調で、気持が軽くなりました。「音楽に元気をもらったなぁ」と感じた一週間でした。

 あなたはどうでしたか。忙しい中にあっても神様の祝福があなたにありますように。お祈りしていますね。

youtu.be

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9月3週目:言葉が届きますように

 9月も終わりが近づき、そろそろ10月です。随分と涼しくなりましたね。今週は、私にとって疲れた一週間でした。肉体的な疲労よりも精神的な疲労を感じました。というのも、私は、相手の表情や振る舞いから相手が何を考えているのかを読みとろうとしてエネルギーを使って疲弊する癖があります。

 たとえば、職場で先輩が、がっかりした顔をしたり溜息をつくと「期待を裏切ってしまった!」とか「自分が何か失敗をしてしまったのかな?」と思います。そして感情が揺さぶられてぐったり疲れます。小さなことに過敏だと言ってもいいかもしれませんね。今週は、その種の徒労感を覚えてぐったりしてしました。こういう時は神様に祈ることにしましょうね。

 また、今週は、村山由佳さんの『放蕩記』を読みました。母親のモラルハラスメントを受けて育った夏帆という女性のお話です。お話の中で、夏帆の回想を通して強烈なキャラクターの母親が描かれます。この母親・美紀子は、村山さんの母親がモデルだそうです。村山さん本人のお話によると、「(美紀子のセリフとして)書いてあることで彼女(村山さんの母)が言ったことのないセリフはただの一つもないです。」ということです。

 私にとって印象に残ったのは、夏帆の母親の美紀子がキリスト教徒だということです。中学生の夏帆が漫画を万引きした時に、母の美紀子が取り乱して十字架を握りながら血を吐くほどの強さで神に赦しを請います。夏帆はそんな美紀子を冷ややかに見つめます。

 美紀子は、まだ泣き続けている。時折、神様、という言葉が口からもれる。

 犯した罪は深刻に違いないのに、夏帆には母の言動があまりにも芝居がかって見え、そのせいで、ことの重大さも真摯な反省の気持も、正直なところどこかへすっとんでしまっていた。*1

 この部分を読んで私は心が痛くなりました。私もキリスト教徒なのですが、なんだか、自分に向けて言われたように感じました。「結局、あなたもキリスト教徒というお芝居をしているのではないの?」「あなたの信仰は思いこみではないの?」と言われている気がしたのです。この種の問に私はどのように答えればよいのでしょう。うーむ。

 ところで、文学を読む時、他の人が読んでもどうも思わないような一文に自分だけは動かされるということがありますよね。虚構の物語が、現実の自分を動かすというのは不思議だなぁと感じます。この不思議さと関係するのかは分かりませんが、村山由佳さんが文学について語っていたことが印象に残りました。

モラルだとか、人がかけてくれる暖かい言葉だとか、「あなたのためよ」って言って助言をしてくれるような人の言葉では救われない傷というものがこの世には、たくさんあって、そういう傷にはたぶん、フィクションでしか手が届かないからなんです。[・・・中略・・・]文学でしか、手の届かない心の領域というものは、あると思います。

 とても辛い経験をした方にお会いする時、「この人にどういう言葉をかけてあげればいいんだろう」と戸惑うことがあります。自分の経験は限られています。理解できることも限られています。どれだけ私が言葉をかけてもその人を癒やすことはできないでしょう。そういう傷に届く言葉(文学)があるのならば、それは素晴らしいことだと思うのです。

 どうぞ、苦しい経験の中にあってもあなたに神様の助けがありますように。新しい一週間も神様の豊かな祝福がありますように。

youtu.be

*1:村山由佳,『放蕩記』, p.202, 集英社, 東京, 2014

9月2週目:それはすでに悩んでいる

 今週の火曜日のこと。小さな悩みにとらわれ、仕事中にウジウジすることがありました。内容も思い出せないぐらい小さな悩みです。ふと思いついて、悩みをノートに書き出してみました。すると少し気が晴れたような気がしました。

 自分には小さなことをウジウジ悩む癖があります。「誰々に△△と言われた」とか「あの時はこうすべきだったんじゃないか」とか。以前に「悩みをノートに書く」ことは試したことがありました。でも疲れるだけで辞めてしまったのです。なぜ火曜日はそうならなかったのかわかりません。

 火曜日の経験があってから今週は毎朝、自分の悩みをノートに書いてみました。教会に出てから会社が始まるまでの間に、ノート一行に一つの悩みを書いていきます。「◯◯に悩んでいる」とか「△△はどうすればいいだろう?」とか。ある程度書いたら今度は、その悩み一つ一つに、一分間と時間を決めて、さらに思いつくことを書きたしました。「☓☓にも悩んでいる!」とか「◻◻をすればいいのでは?」という感じ。

 それを一週間続けても「自分はウジウジしなくなりました!」という状態にはなっていませんが、少し変化がありました。悩みそうになった時、「あっ。それはもう今朝に悩んでいるな」と思うことがありました。

 書くことで悩みが記憶に残りやすくなったのかなぁ。「それはすでに悩んでいる」というのは新しい感覚です。しばらくこの習慣を続けてみましょう。

9月1週目:聞くことと生きること

  今週も、出勤の前に教会に行くことができた。とても喜ばしい。今週から教会で礼拝に出席する時、メモを取ることを辞めてしまった。
 なぜなら、話を聞くことに集中したいからだ。これまでは、メモや自分の考えに気をとられて話に集中できないことがあった。そこで、礼拝中はメモを取らずに、必要なら礼拝後に内容を思い出してメモを書くようにした。そうすると、気のせいか、記憶への定着もよい。しばらく、この習慣を続けてみようと思う。
 礼拝以外でも今週は何冊か本を読むことができ、ぼーっと物思いに耽ることが多かった。本を読みながら思ったことは、人生の時間は短いということだ。自分ができることは限られている。生きることは空しく儚い。しかし、すぐに自分の虚しさを忘れてしまう弱さが私にはある。そのことを忘れるから、自分の幸せや欲望や夢や成長や成功や財産、いずれは消えてしまうものを追い求めて生きている。
 もしも、本当に大切なことのみに、人生の与えられた時間を集中することができるなら、どんなに素晴らしいことだろう。しかし、いつでも虚しいものに流されてしまう。 神だけに望みをおいて生きることがいかに少ないことか。
 このことを忘れたくないと思う。 いつもこのことを覚えていたいと思う。どうか、いずれは死んでいくこの身の虚しさを忘れないように。与えられた命を無駄にしないように。せめて、そう望めるように。祈ろう。