11月3週目:すき焼き

今週は、兄弟で、すき焼きパーティをすることができました。 兄弟の近況を聞くことができ、たくさん笑って とてもリラックスすることができました。

今週も、焦らず、ゆっくり、ゆっくり行きましょうね。

11月2週目:一足、一足。

 苦しい時ほど、 静かに呼吸して姿勢を正そう。 自分の努力や知恵に頼るのではなく、 神さまに祈って頼ろう。 さぁ、今週も一歩づつ、一歩づつ。 主が共にいてくださることを、 よろこんで、感謝していこう。

苦しい中にあっても、あなたに神様の祝福がありますように。

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11月1週目:泉

 今週は、冷え込んでいましたね。いかがお過ごしでしょうか。今週も朝、教会に行き、聖書を読むことができました。

 最近は、『箴言』という旧約聖書中の書物を読んでいます。 今、仕事が苦しく、不安があります。 苦境の中でも信仰を持って誠実に仕事をするにはどうしたらよいだろう。 そのための知恵を『箴言』から求めたいと思ったのです。 今週は、『箴言』を読んでいて、こんな表現が目にとまりました。

あなたの水ためから、水を飲め

豊かな水をあなたの井戸から。

あなたの泉を外に散らし

通りを水路にしてよいものか。

それを自分だけのものにせよ。

あなたのところにいる他国人のものにするな

(箴言5:15-16)

 「泉」とはなんでしょうか。 前後の文脈からは、この泉が妻のことを指しているようです。 不倫を戒めている箇所だと言えそうです。

 文脈を無視して文書を読むのはよくないのですが、 それでは、自分にとって「泉」とはなんだろうと考えます。私には、「泉」という言葉で、教会の人間関係が思い浮かびました。年齢も職業も多様な教会での交流です。 ここから、いつも元気を汲んで帰っている気がします。とても感謝なことです。

 あなたにとって「泉」とは何でしょうか。 尽きない泉があなたに与えられるように。 与えられた泉を大切にできるように。 祈っています。

10月4週目:日曜日の防波堤

 今週も、一週間を無事に終わることができそうです。ほぼ毎朝、教会に行くことができ、うれしく思っています。仕事の方は、ますます緊張を覚えることが多くなりました。こういう時にがんばる一方では、疲れてしまいますよね。上手に体の力を抜けるとよいなぁと思います。  

 力を抜くと言えば、先週の日曜日は、教会で「休む」ことについて話を聞きました。キリスト教では、日曜日のことを「安息日」と呼んでいます。お仕事の手をとめて、神さまを賛美する日です。その「安息日」という言葉の意味について、礼拝で牧師がお話をしました。話の本筋ではないのですが、私は、「生産性」という言葉に興味をもちました。

 普通、仕事では結果を出すことが求められます。たとえば、一台でも多く車を売ったり、一人でも多くのお客さんに満足してもらったり。仕事では、そういうことが求められます。結果を出すために「生産性」の向上が大切です。「生産性」とは、単位時間あたりに出力する結果のことですね。

 しかし、「生産性」が高いことで「自分がすごい」とはなりません。また、「生産性」が低いことで「自分はダメな人間だ」ともなりません。そうなるためには、「生産性が人間のすごさ/駄目さの規準」という前提が必要です。しかし、この前提は、そんなに自明ではありません。

 少なくとも、キリスト教徒は、「生産性に関わらず、神さまが自分を愛してくださる」と信じていると思います。実は、私は、「仕事が出来る人や頭がいい人がエライ!」という価値観に流されやすいのです。しかし、そういう価値観は、信仰とは関係のない私の癖のようなものです。

 自分に、そういう癖があるのは、しかたないですよね。むしろ、それを自覚した上で、きちんとケアする必要があります。たとえば、一週間に一日ぐらい、何もせずにぼーっとする。仕事のことを忘れて、神さまを賛美する。そうすることで、「生産性」という規準に自己評価を委ねないようにする。それは、休んではいるけれど、自分の癖と闘う為の工夫です。「安息日」には、そういう防波堤のような役割もあるのかもしれませんね。

 あなたは、どうですか。疲れていないでしょうか。たまには、一日ぼーっとするのもよいものです。かなり勇気がいりますけれど。どうぞ、必要な時に立ち止まる勇気が与えられますように。神さまの祝福があなたにありますように。覚えて祈っていますね。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)

10月3週目:いつも喜んでいなさい

 今週も無事に終えることができてとても感謝です。東京では、今週は、ずっと雨でした。雨の日は、洗濯物が乾かなくて困りますよね。そんな雨の中でも、今週は、毎朝仕事前に教会に行くことができました。私は、そのことをとても嬉しく思っています。仕事前に教会に行くことが好きです。

 今週は、教会で、仕事のことについて祈りました。「祈る」というのは、神様に向かって祈ります。たとえば、キリスト教なら、「神さま、お名前を賛美します・・・」などの言葉で始めて、神さまに向かって祈りを捧げます。どうして祈るのかというと、自分の力ではどうにもならないことがあるからです。

 たとえば、今、私は、自分の力ではどうにもならない問題にぶつかっています。自分の仕事環境が来月から変わるからです。今までよりも大きな仕事を任されることになりました。そのため、「新人の私に仕事ができるのだろうか?」と不安で一杯です。自分の力でどうにかなるものではないですが、神さまの助けを信じ、来週も喜んで歩んでいきたいと思います。

 来週もあなたに神さまの祝福がありますように。お祈りしていますね。

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

(テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節)

10月2周目:群盲象を撫でる

 今週の月曜日は、お仕事がお休みで買い物に行きました。買い物を終え、ふと、立ち寄った映画館で『三度目の殺人』という映画を観ました。

 物語の主人公は、福山雅治が演じる弁護士の重盛です。ある日、重盛は、司法修習生時代の同期・摂津から三隅という容疑者の弁護を頼まれます。三隅は強盗殺人の容疑者です。この三隅は、従業員として働いていた工場の金に手をつけ、クビになります。その後、彼は、金を奪う目的で工場の雇い主を殺害した容疑で逮捕されました。摂津は、その容疑者・三隅の発言が二転三転するために、重盛に助けを求めたのです。

 「発言が二点三点」するとは、たとえば、初めて三隅と重盛が面会した時に、次のような会話があります。

重盛は助け船を出した。

「殺そうと思ったのは、お酒を飲む前?それとも飲んでヤケになっちゃって?」

三隅はしばらく考えるようになった顔になったが、すぐに重盛の"絵"に乗ってきた。

「飲んでヤケになって」

これで少なくとも計画的な犯行ではないと印象づけられる、と重盛はさらに訪ねようとしたが摂津が「あれ?」と声をあげた。

「全開聞いた時は"前から殺してやろうと思ってた"っていわなかったっけ?」

すると三隅は困惑を浮かべて首をひねった。

「あ・・・・・・そうだったかな?」

摂津はチラリと重盛に視線を送った。その目は"な? こういうことなんだよ"と語っていた。

 物語を通して、重盛は、三隅のこのような発言に振り回されます。三隅は本当に殺人を犯したのか。なぜ殺人を犯したのか。情報を集めるほど、当初は平凡に思えた事件の全体像が重盛にはわからなくなります。さらに、三隅とのやり取りや事件の調査を通して、重盛自身の職業観や正義感や家族観も揺らぎはじめます。

 物語の中で、特に印象に残ったのは、「群盲像を撫でる」という言葉でした。物語の中盤には、被害者の家族についての重要な事実が発覚します。被害者の娘・咲江が自分の家族の中で起こった出来事を重盛に打ち明けたのです。重盛は、咲江の証言を踏まえてもう一度事件全体を整理します。その日、重盛と摂津の間で次のようなやり取りがあります。

「あのさ、中国だったかどこだったかのさ、古い小話で、目の見えない人たちがみんなで象に触るっていう話があるんだけどさ」

「ああ、鼻に触ったヤツと耳に触ったヤツが、自分のほうが正しいって言い争う話しだろ」

[・・・中略・・・]

「そう、それそれ」と摂津がいって、ぼそりとつぶやいた。

「今、おまえ、なんかそんな気分じゃない?」

「そうかもな。で、俺は今、どこ触ってんだろうな」

そういって重盛は目を閉じた。闇のなかに手を伸ばして、見えない動物を触っている。

「裁いたのか、救ったのか」

重盛は弁護になって初めて、事件を"理解"できずにいることを自覚していた。

"群盲象を撫でる"というのは、目の見えない人達が象の足や鼻、耳をそれぞれ触って異なった解釈をするというものです。物事や人物の一部だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまうことのたとえですね。この物語は、この言葉がテーマになっていると感じました。

 物語の終盤、重盛は、咲江の証言を得て「三隅は咲江を救うために、咲江の父親を殺した」という確信を強めます。三隅の罪に対する判決の後、重盛は自分の確信を三隅に話します。しかし、三隅の反応は空疎で、彼の表情からは何も感じ取ることができませんでした。三隅と重盛の最後のやり取りの一部は、次のようなものでした。

 だが重盛は必死ですがりつきたくなる衝動と戦っていた。ひとり相撲だったというのか。突き放そうとしているのか。本当に三隅は殺人の衝動を生まれつき持った狂人なのか。それとも殺人の罪をかぶっただけ男なのか。

重盛は確認せずにはいられなかった。

「それは、つまり、僕がそう思いたいだけってことですか?」

「だめですよ、重盛さん・・・・・・」

そういって三隅は小さく鼻で笑ってから楽しげに続けた。

「僕みたいな人殺しに、そんなことを期待しても」

 この映画を観終わった後も、まだすっきりしませんでした。この映画の感想を無理やり言葉にしてみると、「わかったつもりになる」ということの怖さが思い浮かびます。普段の生活の中で「これでわかった!」と確信を持つことがあります。私だったら、キリスト教信仰において、人間関係において、仕事において「わかった」と確信を持つことがあります。特に「この人は◯◯だから」と人を分類することがよくあります。一体、この種の「わかったつもり」とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。

 せめて、自分の「わかったつもり」があなたを傷つけることのないように祈っています。

10月1周目:患難さえも

 4月に入社してから、半年が経過しました。仕事の量と責任が増えてくるのと同時に、「自分には無理だ」「嫌だ。やりたくない。」という気持、恐れの気持が出てきています。そういう時には私は神様に祈ります。

 教会では、「神の恵み」という言葉を聞くことがあります。病気が癒されたり、仕事がうまくいったり。大学に合格した時。自分の願いが叶えられたり、自分の状況が好転する時に使うことが多い印象を受けます。たしかに、それらも「神の恵み」なのかもしれません。

 しかしながら、目も当てられない失敗や自分の力ではどうにもならない課題を抱えて、はじめて真剣に神様を求めて祈るような気がします。今自分が直面する困難も、そのことで神様に祈れるのなら「神の恵み」なのかもしれません。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(ローマ人への手紙 5:3-5:5)

 今は、「患難が恵だ」とは、とても思えないけれど、「あぁ、駄目だ。駄目だ。私はこんなに駄目だ」と落ち込んでいては、環境の奴隷です。どういう環境にあっても、喜んで絶えず祈って、感謝しながら進むことができますように。