4月1週目:ダイヤモンドより貴重な時間

 こんにちは。東京は、最近、暖かくなりました。今週は、一日だけですが、朝から教会に行きました。朝に教会に行くことで、とてもありがたいことは、時間が与えられることです。朝にゆっくり祈って準備する時間は、私にとって、ダイヤモンドよりも貴重です。

 教会では、4月29日に、教会で中学生達に聖書の話をすることになりました。私が話すのは、旧約聖書の創世記の内容です。その内容は、ヤコブエサウという二人の兄弟の話です。今週は、その話を、中学生にどう伝えるのか考えていました。

 自分の経験を整理したり、聖書の解説書を読んだりします。焦らず、焦らず、本当に大切なことだけを伝えられるように、祈っています。

3月2週目:伝えることと本を読むこと

 今週は、暖かい日が多かったです。もう春が近いですね。同時に、花粉症の症状がひどくなりました。今週の水曜日に、鼻水に耐え切れずに「アレグラFX」という薬を購入しました。服用しても眠くならずに症状が治まり、とても助かっています。

 今週は、仕事以外の時間では、教会学校で教える内容を準備をしました。教会学校では、毎週担当の先生が、聖書の中にある十数節程度を中学生に解説します。

 解説の準備をしていて、同じ本の特定の箇所にこんなに長い間立ち止まるのは初めてだと感じました。「自分だけが理解できればいい」という読み方だと、こんなにじっくり読まなかったかもしれませんね。

 いったい中学生とどう付き合っていけばいいのか。よくわからないなりに、試行錯誤しています。その一環で、子育のことを調べようと思い、『愛着障害』という本を読みました。幼少期の親と関係が子どもに与える影響について書いた本でした。中学生達にとって教会での人間関係が「安全基地」のように機能するとよいなぁと考えました。

 それと関係あるかがはわかりませんが、私が学生時代の経験を思い出しました。学生時代、自己嫌悪に苦しんでいたことです。いま振り返って、どうしてそのような感情に苦しんでいたかというと、「何かを成し遂げなければ自分には生きている意味がない」という価値観を強く信じていたからです。

 大学院に入学してから、 そのような価値観の下、周囲と自分を比較し、「自分はダメだ」という感情がもっと強くなりました。 とても辛かったのは、 「自分はダメだ」という思いを募らせると何もできなくなることです。頭の中でぐるぐると「自分は駄目だ」という言葉を繰り返しながら、時計を見つめて、時が流れるのを待つことしかできませんでした。

 聖書には「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイの福音書19章19節)という言葉があります。 そもそも「自分を愛する」というのは、難しいと私は感じています。そこには、常に自己中心の問題があると思うのです。 「自分は駄目だ」と落ち込む時、 自分を愛してくださる神様を差しおき、自分の価値判断を固く信じていることなります。そういう意味では、自己嫌悪もまた一種の自己中心です。

 私がそのような 自己嫌悪から解放されるためには、自分の言葉ではなく、 人に祈ってもらうことが助けになりました。たとえば、教会でお互いのために祈る時間。初めて人と一緒に祈った時、とても恥ずかしくて、自分の内面の問題を話すことができませんでした。 それでも人に祈ってもらった後、なぜかは分かりませんが 、自己嫌悪が和らいだ気がしました。

 今でも、自分がしょうもない人間だと感じる時があります。でも、人に祈ってもらった時に「はっ」と気がつくのです。 自分が、自分の醜さとか幼さとか弱さばかりを見ていて(自分ばかりを見ていて)、 私を愛している神さまのことを忘れていたことに気がつきます。

 私にとって信仰とは「自分を主語にするのをいったんやめる」ことです。 「神さまが」私を作ってくださった。 「神さまが」私を愛してくださっている。 「神さまが」必要なものを備えてくださる。自分の至らなさではなく、 神さまのすばらしさに目をとめる。

 あなたはどうですか。あなたのことを覚えて祈っています。今週も神さまの祝福があなたにありますように。

2月3週目:山の上に立って、遠くを見渡すような。

 今週は、随分と暖かい日が増えました。いかがお過ごしでしょうか。

 私は、今週の日曜日、朝から教会学校に参加しました。中学生はみんな、よく笑っていて、質問が出ました。再来週の日曜日は、私が教会学校での先生を担当します。

 それで、今週は、仕事中にも、気がつくと、教会学校で話す内容を考えてしまいました。いけない、いけない。それでも、うまくまとまりませんでした。

 自分が中学生なら、どういう風に話してもらいたいだろう。「あぁ、今日は来てよかった。明日から頑張ろう」と思って帰ってもらえるでしょうか。

 一方的な価値観の押し付けではなくて。心から「これ、もっと知りたい!」と思えるような。山の上に立って、遠くを見渡すような見晴らしのよさ。

 少なくとも私の場合、そういう時に楽しさを感じます。そういう楽しさを伝えられるとよいのですが。

 「数学は……楽しいです」テトラちゃんがノートをめくりながら言った。「村木先生のカードは感覚的にすごく―ええと、なんていうか、オープンなんです。これで好きに遊びなさいって言われているようで」

 テトラちゃんは夢を見るような口調で続ける。

「だいぶ以前の話ですが、あたしが《先輩から数学を教わっています》って話したとき、村木先生はこうおしゃったんです。《カードをあげるから、ときどき来なさい》って……あたし、思いました。あたしに渡された一枚のカード……この数学的素材から、どんなおもしろいものを見つけられるかは、あたし次第なんだ―って」

テトラちゃんはひとりでコクコク頷く。

「あたしが、大学に行きたいと思ったのも同じころでした。あっと―ちょっと違いますね。あたしは、大学に行きたいわけじゃないんです。そうじゃなくて、あたしは―あたしは学びたいんです。せっかくこの世に生まれたのですから、しっかり学び、いったいどこまで人類がたどりついたのかを見とどけ、そして、あたしなりの一歩、ほんの小さな一歩でいいので、それを進めたい―と思うんです」*1

2月2週目:淡々と明日一日を

こんにちは。いかがお過ごしですか。

今日は、ずいぶん暖かいです。今週は、毎朝、教会に行けたわけではないのですが、 それでも教会に行ける日の朝は、心地よく目が覚めました。

また、今週は、ほとんどの日に、定時で家に帰ることができました。 定時で家に帰ると、掃除や洗濯が落ち着いてできます。 また、本を読んだり勉強する余裕もあります。 最近、PCディスプレイを購入しました。 23インチで一万数千円でしたが、とてもよい買い物でした。 画面が大きいと文字が読みやすく、格段に疲れにくいです。

一方で、今週は、人間関係で悩んでいました。 仕事中にも、悩みが頭から離れず、こっそりメモ帳に感情を吐き出しました。 苛々を仕事に持ち込むのは、へんですよね。 負の感情も否定せず、吐き出して、 自分の感情のケアをするのも大切だなと感じました。

悩み事を通して、主が何を示してくださるのか。 期待をもって、淡々と明日一日を歩めるように。

あなたにも神さまの祝福があるように、祈っています。

2月1週目:海でもみながら、気楽にいこう。

こんにちは。いかがお過ごしですか。 こちらは、先週も寒く、また雪が降りました。 「また積もるのかな?」と思いましたが、 電車も止まることなく動いてくれました。

先週は、あまり朝の教会に出ることができませんでした。 寝坊したり、夜遅くまで起きている日が多かったのです。生活リズムや優先順位が変わりつつあるのかもしれません。 もう一度、生活週間を見直してみようと思います。

きちんと掃除や洗濯や睡眠ができない時間まで、 会社に残るのは避けた方がいいかもしれませんね。

目の前の仕事をこなすことだけに熱中すると、 神さまがともにいてくださると感じなくなっています。 そして仕事が終わってから、「あぁ、そういえば今日は仕事中祈れなかった」と思うのです。

「仕事で成功したい!」とか、 そういう欲に流されやすいのかもしれません。 そういう弱さがあるのは仕方がないですが、 仕事中も祈る余裕をもっていたいなぁ。 今日はぼーっと海でも見つめながら、 一週間を振り返ってみようと思います。

どうぞ、今週も素晴らしい一週間となりますように。お祈りしています。

海はもの欲しげなものや欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。 *1

*1:p15, アン・モロウ・リンドバーグ,『海からの贈り物』

1月4週目:満員電車の祝福

 こんにちは。いかがお過ごしですか?こちらは、今週はとても寒い一週間でした。東京では、月曜日に雪が降りました。東京でこんなに雪が降るのは珍しいそうです。会社では、同僚が雪だるまを作っていました。ただ、雪の影響もあり、今週は電車の遅延や運休の多い一週間でした。

 普段、私は朝早くに家を出るので、満員電車とは無縁です。しかし、今週は満員電車に乗りました。とてもいいなぁと思ったのは、電車の中でゆっくりと祈ることができたことです。普段、電車に乗る時は、スマホか、本を手に持っています。しかし、満員電車だと、手も動かせません。なので、ゆっくりと神さまに祈る時間を持つことができたのでした。

 雪のせいではないと思いますが、今週は、仕事でも混乱することがありました。やることが雪だるま式に増え、優先順位をつけられず、フリーズしてしまったのです。忙しくなると混乱します。それで、神さまに祈りました。どこかに解決策を求めにいったり、自分を責めたりするのではなくて、神さまが答えをくださると信じて、自分は目の前の問題をこなせるように。

 あなたは、どうでしたか。今週はどんな一週間でしたか。いつも神さまが助けてくださるように。祈っています。

1月3週目: いつも心に「おしまい」を

 今週も寒い日が続きました。いかがお過ごしでしたでしょうか。教会でも会社でも咳をしたり、体調をくずす人が増えてきました。どうぞ気をつけてくださいね。

 私は、今週も、仕事前に教会に行って祈ることができました。とてもよい時間でした。朝の教会では最初に聖書を読みます。今週は、イエスの弟子のステパノが無実の罪で殺される場面を読みました。ステパノは無実の罪で裁判にかけられます。彼は、最後まで主張を曲げず、人々の怒りを買って殺されます。聖書の中では、彼の死は、次のように記述されます。

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒の働き:7:57-60)

 ステパノは、自分を殺そうとする人々の許しを主に願って、死にました。私は、この箇所を読んで、「自分ならどう死にたいだろうなぁ」と思いました。

 「死」というとインパクトが強いですが、「おしまい」について考えるのは、大事かもなぁと思いました。自分の「おしまい」とは、たとえば、「いつまでこの人達と一緒にいられるんだろうか」とか「いつまでこの会社にいるんだろうか」とか。

 そういう疑問を持つことで、自分は、「おしまい」のある、有限な存在であることを改めて知ります。そして、自分が有限であることを知る時に、自分を越えたもの、神様に向かって祈ると思うのです。だから、キリスト教徒として、自分の限界や「おしまい」について考えるのは大切なのかなぁと思った一週間でした。

 そういうことを考えながら、木曜日、キリスト教徒の友人達と食事会をしました。場所は教会でした。食事は、半額キャンペーン中のドミノ・ピザと簡単なサラダだけの気楽なものでした。

 私は、彼らだけでなく、自分の友人や教会に来る人をとても愛おしいと思っています。たぶん、その「愛おしい」という気持は、「おしまい」と関わっている気がしました。私たちの肉体はいずれ消えてしまいます。私の場合は、長くてあと数十年。その間で友人たちと会える時間は、そんなにありません。

 だから、出会えたことを神さまに感謝し、残された時間を惜しむように、友人たちを大切にしたいと思うのかもしれません。自分の「おしまい」が、「愛おしい」の出発点となる気がするのです。

 よく目の前のことに流されてしまうんですが、心の片隅にいつも「おしまい」を置いて、生きていけたらいいなぁと感じています。

やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いています。やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね。*1

*1:p32, 小川洋子, 河合隼雄,『生きるとは、自分の物語をつくること』