9月4週目:音楽を聞こう

 こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。もう10月ですね。こちらでは、夜に鈴虫の声が聞こえて秋を感じます。

 私にとって今週は、くたくたになった一週間でした。というのも、職場で環境が変わり、仕事が増えて緊張を感じることが増えたのです。そういうわけで、今週は家に帰ると疲れてぐったりしていました。

 何曜日だったか、へとへとで帰宅して、ふと「音楽を聞こう」と思う日がありました。そこで、たまたまYoutubeでお薦めされた「長崎は今日も雨だった」を聞きました。前川清さんの曲ですが、お薦めされたのは、藤圭子さんのカバーでした。

 ゆったりとした曲調と低くて良く通る彼女の声とを聞いて落ち着いた気持になり、疲れが癒やされたような気がしました。

 翌朝、いつも通り教会に行き、会社付近のカフェで朝食を摂りました。店内では、"I Do Adore"という曲が流れていました。女の子が散歩をしているような曲調で、気持が軽くなりました。「音楽に元気をもらったなぁ」と感じた一週間でした。

 あなたはどうでしたか。忙しい中にあっても神様の祝福があなたにありますように。お祈りしていますね。

9月3週目:言葉が届きますように

 9月も終わりが近づき、そろそろ10月です。随分と涼しくなりましたね。今週は、私にとって疲れた一週間でした。肉体的な疲労よりも精神的な疲労を感じました。というのも、私は、相手の表情や振る舞いから相手が何を考えているのかを読みとろうとしてエネルギーを使って疲弊する癖があります。

 たとえば、職場で先輩が、がっかりした顔をしたり溜息をつくと「期待を裏切ってしまった!」とか「自分が何か失敗をしてしまったのかな?」と思います。そして感情が揺さぶられてぐったり疲れます。小さなことに過敏だと言ってもいいかもしれませんね。今週は、その種の徒労感を覚えてぐったりしてしました。こういう時は神様に祈ることにしましょうね。

 また、今週は、村山由佳さんの『放蕩記』を読みました。母親のモラルハラスメントを受けて育った夏帆という女性のお話です。お話の中で、夏帆の回想を通して、強烈なキャラクターの母親が描かれます。この母親・美紀子は、村山さんの母親がモデルだそうです。村山さん本人のお話によると、「(美紀子のセリフとして)書いてあることで彼女(村山さんの母)が言ったことのないセリフはただの一つもないです。」ということです。

 私にとって印象に残ったのは、夏帆の母親の美紀子がキリスト教徒だということです。中学生の夏帆が漫画を万引きした時に、母の美紀子が取り乱して十字架を握りながら血を吐くほどの強さで神に赦しを請います。夏帆はそんな美紀子を冷ややかに見つめます。

 美紀子は、まだ泣き続けている。時折、神様、という言葉が口からもれる。

 犯した罪は深刻に違いないのに、夏帆には母の言動があまりにも芝居がかって見え、そのせいで、ことの重大さも真摯な反省の気持も、正直なところどこかへすっとんでしまっていた。*1

 この部分を読んで私は心が痛くなりました。私もキリスト教徒なのですが、なんだか、自分に向けて言われたように感じました。「結局、あなたもキリスト教徒というお芝居をしているのではないの?」「あなたの信仰は思いこみではないの?」と言われている気がしたのです。この種の問に私はどのように答えればよいのでしょう。うーむ。

 ところで、文学を読む時、他の人が読んでもどうも思わないような一文に自分だけは動かされるということがありますよね。虚構の物語が、現実の自分を動かすというのは不思議だなぁと感じます。この不思議さと関係するのかは分かりませんが、村山由佳さんが文学について語っていたことが印象に残りました。

モラルだとか、人がかけてくれる暖かい言葉だとか、「あなたのためよ」って言って助言をしてくれるような人の言葉では救われない傷というものがこの世には、たくさんあって、そういう傷にはたぶん、フィクションでしか手が届かないからなんです。[・・・中略・・・]文学でしか、手の届かない心の領域というものは、あると思います。

 とても辛い経験をした方にお会いする時、「この人にどういう言葉をかけてあげればいいんだろう」と戸惑うことがあります。自分の経験は限られています。理解できることも限られています。どれだけ私が言葉をかけてもその人を癒やすことはできないでしょう。そういう傷に届く言葉(文学)があるのならば、それは素晴らしいことだと思うのです。

 どうぞ、苦しい経験の中にあってもあなたに神様の助けがありますように。新しい一週間も神様の豊かな祝福がありますように。

youtu.be

*1:村山由佳,『放蕩記』, p.202, 集英社, 東京, 2014

9月2週目:それはすでに悩んでいる

 今週の火曜日のこと。小さな悩みにとらわれ、仕事中にウジウジすることがありました。内容も思い出せないぐらい小さな悩みです。ふと思いついて、悩みをノートに書き出してみました。すると少し気が晴れたような気がしました。

 自分には小さなことをウジウジ悩む癖があります。「誰々に△△と言われた」とか「あの時はこうすべきだったんじゃないか」とか。以前に「悩みをノートに書く」ことは試したことがありました。でも疲れるだけで辞めてしまったのです。なぜ火曜日はそうならなかったのかわかりません。

 火曜日の経験があってから今週は毎朝、自分の悩みをノートに書いてみました。教会に出てから会社が始まるまでの間に、ノート一行に一つの悩みを書いていきます。「◯◯に悩んでいる」とか「△△はどうすればいいだろう?」とか。ある程度書いたら今度は、その悩み一つ一つに、一分間と時間を決めて、さらに思いつくことを書きたしました。「☓☓にも悩んでいる!」とか「◻◻をすればいいのでは?」という感じ。

 それを一週間続けても「自分はウジウジしなくなりました!」という状態にはなっていませんが、少し変化がありました。悩みそうになった時、「あっ。それはもう今朝に悩んでいるな」と思うことがありました。

 書くことで悩みが記憶に残りやすくなったのかなぁ。「それはすでに悩んでいる」というのは新しい感覚です。しばらくこの習慣を続けてみましょう。

9月1週目:聞くことと生きること

  今週も、出勤の前に教会に行くことができた。とても喜ばしいことです。実は、今週から教会で礼拝に出席する時、メモを取ることを辞めてしまいました。
 
 なぜなら、話を聞くことに集中したいと思うようになったからです。。これまでは、メモや自分の考えに気をとられて話に集中できないことがありました。そこで、礼拝中はメモを取らずに、必要なら礼拝後に内容を思い出してメモを書くようにしました。そうすると、気のせいか、記憶への定着もよくなりました。しばらく、この習慣を続けてみようと思います。
 
 礼拝以外でも今週は何冊か本を読むことができ、ぼーっと物思いに耽ることが多かったです。本を読みながら思ったことは、人生の時間は短いということです。自分ができることは限られています。生きることは空しく儚いものかもしれませ。しかし、すぐに自分の虚しさを忘れてしまう弱さが私にはあります。そのことを忘れるから、自分の幸せや欲望や夢や成長や成功や財産、いずれは消えてしまうものを追い求めて生きてるように感じます
 
 もしも、本当に大切なことのみに、人生の与えられた時間を集中することができるなら、どんなに素晴らしいことでしょう。しかし、いつでも虚しいものに流されてしまう。 神だけに望みをおいて生きることがいかに少ないことでしょう。
 
 このことを忘れたくないなぁと思います。 いつもこのことを覚えていたいと思うのdす。どうか、いずれは死んでいくこの身の虚しさを忘れないように。与えられた命を無駄にしないように。せめて、そう望めるように。祈りましょう。

8月5週目:ダンスを踊るように

 週末から急に寒くなってきました。少し夏が名残惜しいですが、もう秋なのですね。今週は、毎朝、教会に行ってから会社に行きました。教会での祈りをもって一日を始められるのは、私にとってとても喜ばしいことです。現在は、残業がほとんどないので朝早く起きられるのですが、残業をしてからもこの生活習慣を続けたいなぁ。

 教会は、会社から電車で10分ほどのところにあります。いつもは、朝ごはんを会社付近のカフェで食べていました。しかし今週は、教会の最寄り駅にあるおむすび屋さんでおにぎりを食べてみました。コンビニのおにぎりと違って目の前で握ったものをそのまま出してくれます。また、一つのおにぎりが大きくて満腹感があります。主観ですが、コンビニのおにぎりよりも美味しく感じます。

 朝からおにぎりを食べるのは、いいのかもしれませんね。少しづつ少しづつ習慣を作っていきましょう。朝早く起きて、祈って、朝ごはんを食べて、勉強して、仕事をする。リズムを刻むように、ダンスを踊るように、規則正しい生活を送りましょう。

8月4週目: 種まき

 今週は夏休みなどが重なり、3日しか働きませんでした。休みの日には、出かけることもなく家でダラダラしていました。駄目人間まっしぐらです。ポテトチップスのおいしいこと、おいしいこと。
 
 それでも今週一週間で嬉しいことがありました。新しく始めた習慣が続いているのです。英語とコンピュータプログラミングの勉強を一週間続けることができました。といっても、馬鹿みたいに小さなことしかしていません。1日5分だけです。5分間は、よくわからなくても、とにかく手を動かしています。「やったぞ!」というアリバイ作りをしているような感じです。
 
 こんなに小さなことでも、毎日続けられることがあるのはとても嬉しいと感じます。習慣は種のようなものだと思うからです。芽吹いた種は、希望です。大切に育ててあげたいと思います。無理に引っ張ったり、大きくしようとする必要はないと思うのです。成長させるのは、私ではなく、太陽と神様です。焦らず、喜んで、種を撒きましょー。
 
『わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。』 コリント人への第一の手紙3章1~9節 

8月2週目,3週目: 遣えて生きる?

 8月も、もう下旬。昼はまだまだ暑いけれど夜はすっかり涼しくなりました。もう秋が近いのですね。


  先週から会社は夏休みです。私は、実家に帰省し、地元の友人や家族に会うことができました。久しぶりに彼らと話をする中で、以前はあまり気にならなかったことが気になりました。

 

 それは、 「自分のできることは限られているなぁ」ということです。 というのも、友人達や家族ががんばっている話を聞きとても励まされた一方で、彼らの悩みも聞きました。その悩みを聞いて、「自分が彼らのためにできることはとても限られているなぁ」と感じました。

 

 勉強や研究を代わってあげることはできないし。代りに年老いてあげることもできません。 複雑な人間関係や長年の習慣や性格を変えるには長い時間がかかりそうです。自分の人生さえ侭ならないように私には思えるのに。人が抱える問題を私が解決できるなどと、おこがましいかもしれません。


 それでも、人を愛し人に遣えて生きるキリスト教徒の生き方とは、どのようなものなのでしょうか。まだ答えがわからず、もやもやとしています。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ福音書15章13節)

 

 願わくば、来週も一つ一つ誠実に役割を果たしていけるように。皆様の上にも、豊かな神様の祝福がありますように。