1月2週目:タンスと数学

 今週も一週間、無事に終えることができました。とっても寒い日が続きますね。外を歩くとコートを着ていても縮こまってしまいます。

 先週は、教会学校に参加しました。教会学校というのは、教会で礼拝前に子どもに聖書のことを教える場です。聖書のことを教えるというと大仰だなぁという気がしますが。もともと教会学校の人手が足りないということで、私に声がかかったのです。なので、私は、右も左もわからない状態で、教えるというより、一緒に教室に座って話を聞くことからはじめています。

 そうやって教会学校に参加しはじめたのですが、先日の教会学校で、ある男の子が、「数学、5点しか取れなかった」と言い漏らしたことがありました。彼は数学がとても苦手なようです。それを聞いて、周りの子も他の教会学校の先生も、「もっとがんばらなきゃね!」と励ましていました。

 私はそれを聞いて、「テストの点なんてどうでもいいのになぁ」と思いました。しかし、学生に「テストの点数なんてどうでもいい!」というのも大人としてマズいと思い、その場は何も言いませんでした。その後、数学のテストの点数について考えていました。

 「テストの点はどうでもいい」と思ったのは、「数学なんて勉強しなくてよい」という意味ではないです。というより、数学の楽しさは、テストで点を取ることと関係ないように思ったのです。数学は、テストの点が5点でも100点でも、等しく楽しいものだと思うのです。

 というのは、数学の楽しさは、自分が「わからない」ことを見つけることにあるような気がするからです。一歩、一歩、自分の分かることと分からないことを区別しながら前に進むこと。「あぁ、なんだ!ここがわからなかったんだ。」と気がつくこと。ぐちゃぐちゃのタンスを整理して、衣服をきれいに並べるような。「なんだ、ちゃんと整理すればこんなにスペースがあるんだ!」と気がつくような。そういう感じに近い気がします。

 だからさぁ。テストの点なんて気にしなくていいんだよ。数学はもっと楽しいよ。まぁ、ゆっくり一歩づつやろうよ。そういうことを彼に伝えればよかったんでしょうか。

「……うん、そうだなぁ。たとえば、《数学的帰納法》がわからないとしよう。《自分は、どこがわかってないんだろう》って鏡に向かってーーーつまり、自分自身にーーー訊こう。つい<<ぜんぶ、わからない!>>って言いたくなるけれど、そこで、ぐっと踏ん張る。そして、自分はどこから分からなくなるのか根気よく探す。自分にとっての

<<わからなくなる最前線>>

を探そう。ここだ!・・・と最前線が見つかったなら、本屋に来て、参考書を開く。最前線が書いてあるページを探す。じっくり読む。この本で自分の疑問点が解けそうか、たっぷり時間をかけて考える。*1

1月1週目: 友人との再会と思いこみ。

 1月になりました。こちらは風が冷たいです。私の周囲では、インフルエンザも流行っています。体調には気をつけたいですね。今週から新年になりましたね。いかがお過ごしですか。私は、年末年始は、29日から1月4日まで実家に帰省していました。

 帰省した29日に中学校の同級生4人と会う約束がありました。その4人は、同じバスケットボール部に所属していたメンバーです。4人の中には中学校を卒業してから10年以上会っていない人もいました。

 そのような4人で久しぶりに食事をして、互いの近況を話しました。例えば、結婚をしたかしていないかとか。また、他人の近況についても話しました。「◯◯さんはどうしている」とか。また、バスケットボール部での思い出も話しました。「◯◯の練習が辛かった」とか。結局、同窓会でよくあるような会話だけをして、その食事会は終わりました。

 それでも、話せてよかったと私は感じました。自分の思いこみや感情のわだかまりが解けていくような気持になったからです。

 私の思いこみや感情のわだかまりとは、中学生の時のバスケットボール部でのある出来事がきっかけでした。ある時、部内でトラブルが起こったことがありました。その結果、部員の半分近くが辞めるということが起こりました。私は辞めた方の人間でしたが、そのことを後悔していました。「自分は物事を途中で放り出す人間なのだ」という負い目のようなものを感じていたのです。その時のことを思い出しては、残った人達に笑われているような気分になっていました。

 集まった4人のメンバーには、部活を途中で辞めた人と残った人がいました。しかし、そんなことを誰も気にしていないようでした。それで、「残った人達に笑われているというのも自分の思いこみだったのかな」という気がしました。自分の思い込みや感情のわだかまりが、少し解けた気持になりました。古い友人と会うのもよいものですね。

2017年を振り返って

 こんにちは。2017年もおしまいですね。どのような一年を過ごされたでしょうか。私も今年一年間を振り返って、とても嬉しかったことを書こうと思います。

 こちらの教会に通い始めてから、朝に教会に行くようになりました。そのために、できるだけ夜早くに寝て、朝の教会に通います。朝の教会では一人で静かに祈ります。その後、会社が始まるまで勉強をします。

 寝坊することも多く、毎日そのように生活できたわけではないです。でも、そういう生活習慣ができつつあることは、とてもありがたいと思いました。単調で変化の無い生活ですが、私はこういう生活リズムがとても好きです。

 こういう生活習慣が作れたのは、自分が新入社員で残業をする必要がないことや、食事を作る必要がない環境にいるお陰だと思います。なので、来年以降、仕事によっては生活習慣も変わるかもしれません。でも、できればこういう生活を続けたいと思っています。

 日曜日の午前中には、いつもどおり教会の礼拝に出ることができました。教会には、子どもからお年寄りまでいろんな年齢の人が来ます。私と同じくらいの年齢の人もいます。そういう人達と交わることができました。たとえば、一緒にお昼ごはんを食べたり、カフェでお茶をしたり、祈ったり。

 そういう交流を通して、月並みですが、みんな同じことで悩んでいるのだなぁと感じることがありました。20代だったら「飲み会が辛いとか」とか「仕事のプレッシャーが増えてきて辛い」とか、将来の不安とか。そういう話を聞いた時は、その場にいるみんなで一緒に神さまに祈るようにします。私は、こうやって誰かと一緒に祈る時間がとても好きで、来年も続けられるといいなと思います。

 今年一年間は、こういう風に教会ばかりで地味な生活でした。地味な生活を続けていると、少しづつですが、自分の考え方に変化があるような気がしました。「自分は生きていてよいのだ」と思うようになったことです。

 大きな夢や情熱がなくても、突出した成果を何かの分野で残せなくても、自分は生きていてよいと思うようになった気がします。「自分の価値は神さまが決めるのであって、自分の仕事や自分自身が決めるのではない」と、少しづつ思えるようになったのかもしれません。それだけで、けっこう生きることが楽になりました。

 信仰を持って生きることは、すばらしいなぁ、と感じます。世の中の閉塞感や将来不安に惑わされなくてもよい(惑わされてもいいけれど)。自分が決めた道を進む必要はない(進んでもいいけれど)。ただ、神さまが備えてくださる道を歩めるように。来年も、祈って一歩、一歩進めますように。

11月3週目:すき焼き

今週は、兄弟で、すき焼きパーティをすることができました。 兄弟の近況を聞くことができ、たくさん笑って とてもリラックスすることができました。

今週も、焦らず、ゆっくり、ゆっくり行きましょうね。

11月2週目:一足、一足。

 苦しい時ほど、 静かに呼吸して姿勢を正そう。 自分の努力や知恵に頼るのではなく、 神さまに祈って頼ろう。 さぁ、今週も一歩づつ、一歩づつ。 主が共にいてくださることを、 よろこんで、感謝していこう。

苦しい中にあっても、あなたに神様の祝福がありますように。

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11月1週目:泉

 今週は、冷え込んでいましたね。いかがお過ごしでしょうか。今週も朝、教会に行き、聖書を読むことができました。

 最近は、『箴言』という旧約聖書中の書物を読んでいます。 今、仕事が苦しく、不安があります。 苦境の中でも信仰を持って誠実に仕事をするにはどうしたらよいだろう。 そのための知恵を『箴言』から求めたいと思ったのです。 今週は、『箴言』を読んでいて、こんな表現が目にとまりました。

あなたの水ためから、水を飲め

豊かな水をあなたの井戸から。

あなたの泉を外に散らし

通りを水路にしてよいものか。

それを自分だけのものにせよ。

あなたのところにいる他国人のものにするな

(箴言5:15-16)

 「泉」とはなんでしょうか。 前後の文脈からは、この泉が妻のことを指しているようです。 不倫を戒めている箇所だと言えそうです。

 文脈を無視して文書を読むのはよくないのですが、 それでは、自分にとって「泉」とはなんだろうと考えます。私には、「泉」という言葉で、教会の人間関係が思い浮かびました。年齢も職業も多様な教会での交流です。 ここから、いつも元気を汲んで帰っている気がします。とても感謝なことです。

 あなたにとって「泉」とは何でしょうか。 尽きない泉があなたに与えられるように。 与えられた泉を大切にできるように。 祈っています。

10月4週目:日曜日の防波堤

 今週も、一週間を無事に終わることができそうです。ほぼ毎朝、教会に行くことができ、うれしく思っています。仕事の方は、ますます緊張を覚えることが多くなりました。こういう時にがんばる一方では、疲れてしまいますよね。上手に体の力を抜けるとよいなぁと思います。  

 力を抜くと言えば、先週の日曜日は、教会で「休む」ことについて話を聞きました。キリスト教では、日曜日のことを「安息日」と呼んでいます。お仕事の手をとめて、神さまを賛美する日です。その「安息日」という言葉の意味について、礼拝で牧師がお話をしました。話の本筋ではないのですが、私は、「生産性」という言葉に興味をもちました。

 普通、仕事では結果を出すことが求められます。たとえば、一台でも多く車を売ったり、一人でも多くのお客さんに満足してもらったり。仕事では、そういう結果が求められます。結果を出すために「生産性」の向上が大切です。「生産性」とは、単位時間あたりに出力する結果のことですね。

 しかし、「生産性」が高いことで「自分がすごい」とはなりません。また、「生産性」が低いことで「自分はダメな人間だ」ともなりません。そうなるためには、「生産性が人間のすごさ/駄目さの規準」という前提が必要です。しかし、この前提は、そんなに自明ではありません。

 少なくとも、キリスト教徒は、「生産性に関わらず、神さまが自分を愛してくださる」と信じていると思います。実は、私は、「仕事が出来る人や頭がいい人がエライ!」という価値観に流されやすいのです。しかし、そういう価値観は、信仰とは関係のない私の癖のようなものです。

 自分に、そういう癖があるのは、しかたないですよね。むしろ、それを自覚した上で、きちんとケアする必要があります。たとえば、一週間に一日ぐらい、何もせずにぼーっとする。仕事のことを忘れて、神さまを賛美する。そうすることで、「生産性」という規準に自己評価を委ねないようにする。それは、休んではいるけれど、自分の癖と闘う為の工夫です。「安息日」には、そういう防波堤のような役割もあるのかもしれませんね。

 あなたは、どうですか。疲れていないでしょうか。たまには、一日ぼーっとするのもよいものです。かなり勇気がいりますけれど。どうぞ、必要な時に立ち止まる勇気が与えられますように。神さまの祝福があなたにありますように。覚えて祈っていますね。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)