4月2週目 : Celebrate your failures!

だいぶ暖かくなりました。外を歩くと桜の花びらがひらひらと舞っています。桜の花びらを見ると、私は「桜の雨」という合唱曲を思い出します。大好きな合唱曲の一つです。桜の雨を眺めながら一週間を振り返ります。

「主体性」と「相手の立場に立つ」

今週から本格的に研修が始まりました。敬語の使い方、報連相の大事さ、メールの書き方、お辞儀の仕方、議事録の書き方。一つ一つ形が決まっていることを学びます。私が実際にやると、ぎこちなく不自然で、できの悪いロボットのようになります。うーん。何度も練習して慣れる必要がありますね。

研修中に一つ気になることがありました。それは、講師が何度も繰り返した「主体的になりなさい」という言葉と「相手の立場に立って考えなさい」という言葉です。

本当はどうしたい?

私はそれを聞いて「う〜ん。なんだかなぁ。」と思いました。ひねくれものの私は、このような言葉に屁理屈を言いたくなります。「主体的になれ!と言われて主体的になろうとするなんて、受け身じゃないか!」とか。

ところで、自分が「◯◯すべきだ」「◯◯ねばならない」と言って理屈や論理をたてようとする時、私は次のように自問します。「本当は何がしたいんだろうね?」「ねぇ、君はどうしたいと思っているの?」

失敗したらどうしよう?

講師の言うことは理解できます。仕事の問題は待っていても解決しない。自分がいくら熱心に努力をしても、相手に理解されないこともある。だから、主体性や相手の立場に立つことは大切なことです。そもそも研修で学ぶのはお作法で、それに文句をつけても仕方がありません。

それでも屁理屈を言いたくなるのは、私の中にこだわりがあるのかもしれません。たとえば、恐れ。「自分から動いて失敗したら怖いなぁ。目も当てられない。努力が無駄になるのは嫌だ。」と思っている。理屈をつければ、頭の中で完結して失敗することもありません。

「相手の立場に立つ」という言葉に反論するのも同じかもしれません。それは自分の頭の中だけで完結しません。自分の仕事が本当に相手の立場に立っているのか。それは、相手に尋ねなければわかりません。自分は「正しい」と思ったけれど、相手に尋ねると見当違いだったりすることもあるでしょう。私にとって「努力は無駄だった」という無力感は恐ろしいものです。

Celebrate your faliures failures!

どちらの場合も私は失敗を恐れているのでしょう。別に死ぬわけでもないのに。我ながら肝の玉が小さいですね。でも「違った考え方もできるかもしれない」と思うことがありました。

先週の日曜日、私は久しぶりに座禅に行きました。指南役の住職が懇親会でこうおっしゃりました。「一生懸命やると良いことは、自分の間違いがわかることですね。間違って一生懸命やると体を痛めますよ。そうすると明確に「これじゃ駄目なんだ!」とわかるでしょう。」

住職は、一生懸命やると、「成功する」とか「成長する」ではなく、「自分の間違いがわかる」と言います。私も本当にそうだと思います。そもそも、普段の生活できちんと失敗する機会ってあまりないですよね。少なくとも私は失敗しても、正当化したりごまかしたりすることがよくあります。きちんと失敗して間違いに気がつくこと。私はそれを喜べるようになりたいのです。

それに、失敗しても神様の愛は変わるわけではありませんし。ちょっと重い腰をあげて、失敗してみましょうかね。

私はこう確信しています。死もいのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:38−39)