6月を振り返って。

 日記を読み返してみると、6月は悩みの多い1ヶ月だった。少しのミスで、悩んだり、落ち込んだり、不安になったり、苛立ったり。

 そういう不安を抱える一方で、6月中は教会で、聖書の中にある列王記という書物を読んだ。列王記という書物には、イスラエルの没落が描かれている。その中で、ソロモンという王様の話が心に残った。

 列王記によれば、イスラエルは、ソロモンの時代に栄華を極めた。ソロモンは知恵に優れ、巧みな政策で国を繁栄させたと記されている。しかし、その後、ソロモンは、自分のためだけに金銭を蓄えるようになり、そして、神に背くようになる。

 ソロモンのような知性も、金銭も私にないけれど、ソロモンと同じ過ちが、私にもあると感じる。それは、「もっともっと」という過ちだ。必要以上の知識や冨や、承認を求めるという過ち。

 自分のことを振り返ると、目的もなく、不安や欲望に駆られて、必要以上の知識と、人からの承認を求めていたと気付く。

 学生時代の私は、多くの知識を得て、頭がよくなることを求めていた。その動機は、自分に自信がなく、不安だったからなのだが、その気持を「学びたい」、「好奇心」、「楽しい」、「自己実現」などの言葉で正当化していたのだと思う。

 ふと、そういう目標に、虚しさを覚えることがあった。「好奇心」や「学びたい」気持を否定するわけではない。しかし、少なくとも私の場合は、それだけを目的にすることに、とても、虚しさを覚え、疲れていた。

 本当は、そういう「自己実現」や「好奇心」に縛れる必要もない。「成功」や「幸せ」や「理想」という言葉に縛られる必要もない。信仰を持って、少しづつそのことを体感するようになった。

 今は、私の職業上、新しい技術や知識に触れることが多い。そうすると、昔のように高ぶりを覚えることがある。でも、その高ぶりに流される弱さは、自分の力では変えられない。ソロモンのように目的のない知恵や冨に溺れないように。必要のない知識や冨から遠ざけられるように。祈ろう。

 いわゆる「成功」、「幸せ」、「自己実現」、「好奇心」、「理想」その種の言葉で、私と同じように虚しさを覚える方に、どうぞ、神様の祝福がありますように。