1月3週目: いつも心に「おしまい」を

 今週も寒い日が続きました。いかがお過ごしでしたでしょうか。教会でも会社でも咳をしたり、体調をくずす人が増えてきました。どうぞ気をつけてくださいね。

 私は、今週も、仕事前に教会に行って祈ることができました。とてもよい時間でした。朝の教会では最初に聖書を読みます。今週は、イエスの弟子のステパノが無実の罪で殺される場面を読みました。ステパノは無実の罪で裁判にかけられます。彼は、最後まで主張を曲げず、人々の怒りを買って殺されます。聖書の中では、彼の死は、次のように記述されます。

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒の働き:7:57-60)

 ステパノは、自分を殺そうとする人々の許しを主に願って、死にました。私は、この箇所を読んで、「自分ならどう死にたいだろうなぁ」と思いました。

 「死」というとインパクトが強いですが、「おしまい」について考えるのは、大事かもなぁと思いました。自分の「おしまい」とは、たとえば、「いつまでこの人達と一緒にいられるんだろうか」とか「いつまでこの会社にいるんだろうか」とか。

 そういう疑問を持つことで、自分は、「おしまい」のある、有限な存在であることを改めて知ります。そして、自分が有限であることを知る時に、自分を越えたもの、神様に向かって祈ると思うのです。だから、キリスト教徒として、自分の限界や「おしまい」について考えるのは大切なのかなぁと思った一週間でした。

 そういうことを考えながら、木曜日、キリスト教徒の友人達と食事会をしました。場所は教会でした。食事は、半額キャンペーン中のドミノ・ピザと簡単なサラダだけの気楽なものでした。

 私は、彼らだけでなく、自分の友人や教会に来る人をとても愛おしいと思っています。たぶん、その「愛おしい」という気持は、「おしまい」と関わっている気がしました。私たちの肉体はいずれ消えてしまいます。私の場合は、長くてあと数十年。その間で友人たちと会える時間は、そんなにありません。

 だから、出会えたことを神さまに感謝し、残された時間を惜しむように、友人たちを大切にしたいと思うのかもしれません。自分の「おしまい」が、「愛おしい」の出発点となる気がするのです。

 よく目の前のことに流されてしまうんですが、心の片隅にいつも「おしまい」を置いて、生きていけたらいいなぁと感じています。

やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いています。やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね。*1

*1:p32, 小川洋子, 河合隼雄,『生きるとは、自分の物語をつくること』