3月2週目:伝えることと本を読むこと

 今週は、暖かい日が多かったです。もう春が近いですね。同時に、花粉症の症状がひどくなりました。今週の水曜日に、鼻水に耐え切れずに「アレグラFX」という薬を購入しました。服用しても眠くならずに症状が治まり、とても助かっています。

 今週は、仕事以外の時間では、教会学校で教える内容を準備をしました。教会学校では、毎週担当の先生が、聖書の中にある十数節程度を中学生に解説します。

 解説の準備をしていて、同じ本の特定の箇所にこんなに長い間立ち止まるのは初めてだと感じました。「自分だけが理解できればいい」という読み方だと、こんなにじっくり読まなかったかもしれませんね。

 いったい中学生とどう付き合っていけばいいのか。よくわからないなりに、試行錯誤しています。その一環で、子育のことを調べようと思い、『愛着障害』という本を読みました。幼少期の親と関係が子どもに与える影響について書いた本でした。中学生達にとって教会での人間関係が「安全基地」のように機能するとよいなぁと考えました。

 それと関係あるかがはわかりませんが、私が学生時代の経験を思い出しました。学生時代、自己嫌悪に苦しんでいたことです。いま振り返って、どうしてそのような感情に苦しんでいたかというと、「何かを成し遂げなければ自分には生きている意味がない」という価値観を強く信じていたからです。

 大学院に入学してから、 そのような価値観の下、周囲と自分を比較し、「自分はダメだ」という感情がもっと強くなりました。 とても辛かったのは、 「自分はダメだ」という思いを募らせると何もできなくなることです。頭の中でぐるぐると「自分は駄目だ」という言葉を繰り返しながら、時計を見つめて、時が流れるのを待つことしかできませんでした。

 聖書には「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイの福音書19章19節)という言葉があります。 そもそも「自分を愛する」というのは、難しいと私は感じています。そこには、常に自己中心の問題があると思うのです。 「自分は駄目だ」と落ち込む時、 自分を愛してくださる神様を差しおき、自分の価値判断を固く信じていることなります。そういう意味では、自己嫌悪もまた一種の自己中心です。

 私がそのような 自己嫌悪から解放されるためには、自分の言葉ではなく、 人に祈ってもらうことが助けになりました。たとえば、教会でお互いのために祈る時間。初めて人と一緒に祈った時、とても恥ずかしくて、自分の内面の問題を話すことができませんでした。 それでも人に祈ってもらった後、なぜかは分かりませんが 、自己嫌悪が和らいだ気がしました。

 今でも、自分がしょうもない人間だと感じる時があります。でも、人に祈ってもらった時に「はっ」と気がつくのです。 自分が、自分の醜さとか幼さとか弱さばかりを見ていて(自分ばかりを見ていて)、 私を愛している神さまのことを忘れていたことに気がつきます。

 私にとって信仰とは「自分を主語にするのをいったんやめる」ことです。 「神さまが」私を作ってくださった。 「神さまが」私を愛してくださっている。 「神さまが」必要なものを備えてくださる。自分の至らなさではなく、 神さまのすばらしさに目をとめる。

 あなたはどうですか。あなたのことを覚えて祈っています。今週も神さまの祝福があなたにありますように。