7月3週目 : わかりやすい文章とキリスト教信仰
私は、現在、教会の高校生に小論文の書き方を指導しています。その経験を通して文書の書き方を人に教えるのはとても難しいと感じています。そもそも人に教える以前に、自分は文章を書けているのか不安になります。
小論文試験では論理的な文章を書くことが求められます。市販されている小論文対策の参考書では、型通り書くことを教えるものが多いです。私も彼に指導をする時は書き方の型を教えます。
というのも、人に文章の書き方を教える時に型や形式は大事だと私は感じているからです。たとえば、「わかりやすく書け」とか「相手に伝わるように書け」と言われても、なかなか書けません。そうではなくて、最初は形式に当てはめて書く指導をします。たとえば、『第一に◯◯と考える』という文の◯◯の部分を埋めさせます。そうすると、迷いながらでも自分で書けるようです。文書指導する上で形式はよい道具となってくれそうですね。
しかし、型は一つの道具です。その型を使う目的が大事ですよね。私が型を使う目的は、わかりやすい文章の書き方を教えることです。つまり、読者が読んで理解しやすい文章、読者を惑わさない文章を書けるようになってほしいと願っています。
ところで、わかりやすい文章を書こうとする時、以下の結城浩さんのtweetをいつも思い出します。
時間は命です。著者は自分の命を使って、少しでも正確で読みやすい文章を作り、読者に届けるのが仕事です。対価をいただくのを恥じることはない。大事なのは、読者の時間を節約できたかという点である。それは(劣化コピーであるけれど)キリストの十字架と同じだ。相手の命(時間)を救っている。
— 結城浩 (@hyuki) 2014年5月26日
わかりやすい文章を書くことで、読者の時間を節約する。それは小さな愛の実践なのかもしれません。もしそうならば、理解しやすい文章を書くことはキリスト教徒としても大事だと言えるかもしれませんね。どうぞ彼の受験勉強が無事に守られますように。