8月1週目:馬鹿みたいに小さな一歩から。
7月、新しいプログラミング言語や数学の勉強を始めようとしたのですが・・・。 結局、怠けて辞めてしまいました。とほほ。
今振り返ってみれば、その原因は、目標を高く設定しすぎたり、必要ないことを学ぼうとしたことです。もしも「これって本当に必要かな?」と考えていれば、今回の失敗は防げたかもしれませんね。 「勉強」や「成長」という言葉に対して疑問を抱かない癖が、自分にはあるのかもしれません。
新しいことを始める時、「なぜそんなことをするんだろう?」と自分に問いかけるのは悪いことではない気がします。たとえ、それが自分にとって「最善だ!」と信じていることであっても。(自分にダメ出しする必要もないけれど)
勉強の目的って何でしょうね?私の場合、キリスト教徒になってから、自分のために特別なことをする必要はないんだなと思うようになりました。自分の「成長」のために、自分の「幸せ」のために、自分の「楽しみ」のために、自分が「何者か」になろうとしなくてもよい。そう思うと、以前よりも勉強が楽しくなった気がします。
だから、高い目標を持ってしんどくなるのも辞めましょう。 その代わり、新しいことを始めようとする時は、馬鹿みたいに小さな一歩から始めよう。ほんとに笑っちゃうぐらい小さなことから。周り道をしたり、いつもとは違う順序で作業をしてみたり。高い目標だけをみつめるのではなく、 馬鹿みたいに小さなことを、楽しんで続けてみよう。
さぁ、今月も馬鹿みたいに小さな一歩を踏み出すぞー。わははは!
7月4週目: たのしい音声入力
今週、はじめてスマホの音声入力を使いました。思ったよりもずっと高い精度で入力されており、手早く文章を書けることに驚きました。長文だと、キーボード入力より早く文章を書けますね。誤変換を修正する手間を考えると、文章を書く時間はそんなに減らないのですが。それでも、音声入力は「書き始める」手間を省いてくれます。
文章を書くために最も重要なのは、「とにかく書き始める」ことです。
ところが、スタートさせるのは、容易なことではありません。書き始めようとしても、非常に大きな慣性が働くのです。ニュートンの慣性の法則は、「止まっている物体を動かすには、力が必要」と言っていますが、それと同じことです。
しかし、音声入力を用いると、この関門を突破することができます。つまり、「出発」することが簡単にできます。なぜなら、思いついたことをしゃべるだけで文章が出てくるからです。(野口悠紀雄、『話すだけで書ける究極の文章法』)
布団の中で寝転がりながら、歩きながら文章を書けるのは、とても楽ですね。それにしても、話した言葉が文章になるのはとても楽しい。ゲーテやカエサルが行った口述筆記は楽しかったんだろうなぁ。私の場合、特に、祈りの言葉が文字になるのは楽しい。後から自分の祈ったことを見直すことができるのはとてもよい振返りになっています。
7月3週目 : わかりやすい文章とキリスト教信仰
時間は命です。著者は自分の命を使って、少しでも正確で読みやすい文章を作り、読者に届けるのが仕事です。対価をいただくのを恥じることはない。大事なのは、読者の時間を節約できたかという点である。それは(劣化コピーであるけれど)キリストの十字架と同じだ。相手の命(時間)を救っている。
— 結城浩 (@hyuki) 2014年5月26日
7月2週目 : 「わかったつもり」と効率
仕事で技術文書を読むときの話。仕事で読む技術文書はよく整理されており、その技術の本質が掴めることも多い。一方で「わかったつもり」になることがある。
「わかったつもり」とは技術を言葉だけで説明して満足すること。例えば、「これって結局、◯◯ってことでしょ?」「◯◯が本質なんでしょ?」とか。効率や成果を求めるなら、「わかったつもり」は避けられない。しかし、それだけで誠実な仕事ができるだろうか。私にはよくわからず迷っている。ただ、自分にできることとできないことを明確に区別したい。
どうすれば、「わかったつもり」を避けられるだろう。対策として一つのことを時間を気にせず納得いくまで学んでみようと考えている。たとえば、あるアルゴリズムを実際に実装して、数学的な背景をきちんと理解する。とても時間がかかるしそんなことで、仕事に影響はないだろう。それでも、「わかったつもり」を避けることはできないだろうか。ヒントだけでもつかめないだろうか。
そう考えて、7月はEMアルゴリズムというアルゴリズムを勉強しなおしている。地道に一歩づつ、一歩づつ。ただ、自分のなすべきことをなせますように。主が、私の傲慢や思い上がりを打ち砕いてくださいますように。
7月1週目: 歩むべき道
今週は、少し忙しい一週間でした。特に、火曜日はバタバタしました。研修の日でしたが、当日まで宿題をしておらず・・・。出発直前まで作業をしても、終わりませんでした。通勤途中に電車の中で祈ってみました。気分的には少し落ち着いた気がします。結局、到着駅のホームベンチで作業をした後、とても中途半端な出来の宿題を提出しました。
また、今週から聖書の「ガラテヤ人への手紙」を読んでいます。その手紙の内容は、「律法(という旧約聖書に書かれたの規則)によっては、人は神様に義と認められない。」というものです。言い換えると、「お金を納めたり、苦しい修行をしたり、大きな神殿を建てたりしても神の目に適う人間にはなれない。」と解釈してもよいかもしれません。
今週は、以上の聖書箇所とは別に、『クリスチャンのための職業選択』という本を読みました。仕事にどう向き合うかが最近の悩みです。キリスト教的に「正解」となる仕事の方法を知ろうと、本書を読んだのですが、
行き先に正解を求めるのではなく、いつもどこに行っても主を信頼し、主がともにおられることが最良の人生であると知ることが、私たちの歩むべき道です。
と書かれていて、面食らってしまいました。「ただ一つの「正解」を求めて、懸命に努力する。そして、自分が素晴らしい人間になろうとする。」それは、とても素晴らしいことのように思えますが、どうも聖書は逆のことを述べている気がします。
そろそろ梅雨明けが近づいてきましたね。今週も豊かな神様の祝福が皆様にあるように。お祈りしています。
6月を振り返って。
日記を読み返してみると、6月は悩みの多い1ヶ月だった。少しのミスで、悩んだり、落ち込んだり、不安になったり、苛立ったり。
そういう不安を抱える一方で、6月中は教会で、聖書の中にある列王記という書物を読んだ。列王記という書物には、イスラエルの没落が描かれている。その中で、ソロモンという王様の話が心に残った。
列王記によれば、イスラエルは、ソロモンの時代に栄華を極めた。ソロモンは知恵に優れ、巧みな政策で国を繁栄させたと記されている。しかし、その後、ソロモンは、自分のためだけに金銭を蓄えるようになり、そして、神に背くようになる。
ソロモンのような知性も、金銭も私にないけれど、ソロモンと同じ過ちが、私にもあると感じる。それは、「もっともっと」という過ちだ。必要以上の知識や冨や、承認を求めるという過ち。
自分のことを振り返ると、目的もなく、不安や欲望に駆られて、必要以上の知識と、人からの承認を求めていたと気付く。
学生時代の私は、多くの知識を得て、頭がよくなることを求めていた。その動機は、自分に自信がなく、不安だったからなのだが、その気持を「学びたい」、「好奇心」、「楽しい」、「自己実現」などの言葉で正当化していたのだと思う。
ふと、そういう目標に、虚しさを覚えることがあった。「好奇心」や「学びたい」気持を否定するわけではない。しかし、少なくとも私の場合は、それだけを目的にすることに、とても、虚しさを覚え、疲れていた。
本当は、そういう「自己実現」や「好奇心」に縛れる必要もない。「成功」や「幸せ」や「理想」という言葉に縛られる必要もない。信仰を持って、少しづつそのことを体感するようになった。
今は、私の職業上、新しい技術や知識に触れることが多い。そうすると、昔のように高ぶりを覚えることがある。でも、その高ぶりに流される弱さは、自分の力では変えられない。ソロモンのように目的のない知恵や冨に溺れないように。必要のない知識や冨から遠ざけられるように。祈ろう。
いわゆる「成功」、「幸せ」、「自己実現」、「好奇心」、「理想」その種の言葉で、私と同じように虚しさを覚える方に、どうぞ、神様の祝福がありますように。
6月5週目: 信じます。不信仰な私をお助けください。
今週も終わる。蒸し暑さが増し、洗濯物の乾きが遅くなった気がする。入社してもう3ヶ月。時が経つのは本当早い。
今週は、仕事で苛々することがあった。先輩からのアドバイスに苛立ちを感じた。先輩の指摘は、とても丁寧で正しいものだった。それでも、苛立ちを感じた。
仕事で苛立ちを感じるのは、自分の中心に仕事を置いているからか。「うまくやりたい」「成功したい」「これくらいできるはずだ」・・・そういう期待。そして、期待外れの現実に直面すると、苛々する。
信仰をもった後、勉強や仕事を通して「自分が優秀である」と誇示しなくてよいこと、自分の弱さを鎧で固め、他者に承認を求めなくてよいことがわかった。私は、自分に残された人生の時間を、神様を中心に据えて過ごしたいと思う。
なのに、現実には仕事や将来のことで苛々したり、不安になったりする。変わらぬ神の愛を信じたいと願っても、外の環境や感情の変化に惑わされるのが現実である。
水曜日、いつも通り教会にいった。そういう悩みで頭がいっぱいだった。キリスト教徒にとって、私の悩みはよくあるようで、偶然にも、同じような仕事の不安について、話を聞く機会があった。
帰り道、ふと、聖書の一節を思い出した。悪霊に取り憑かれたという息子を持つ父親が、イエスのもとに来て、助けを求める場面。
「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私達をあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
(マルコの福音書9: 22-24)
「信じます。不信仰な私をお助けください。」あぁ、今の自分と同じ気持だと思った。すこしだけ、ほんの少しだけ、この言葉の意味がわかった気がした。
仕事について不安や悩みを持つ方は、私だけではないでしょう。どうぞ、あなたにも神様の祝福がありますように。お祈りしています。