7月1週目: 歩むべき道

 今週は、少し忙しい一週間でした。特に、火曜日はバタバタしました。研修の日でしたが、当日まで宿題をしておらず・・・。出発直前まで作業をしても、終わりませんでした。通勤途中に電車の中で祈ってみました。気分的には少し落ち着いた気がします。結局、到着駅のホームベンチで作業をした後、とても中途半端な出来の宿題を提出しました。

 また、今週から聖書の「ガラテヤ人への手紙」を読んでいます。その手紙の内容は、「律法(という旧約聖書に書かれたの規則)によっては、人は神様に義と認められない。」というものです。言い換えると、「お金を納めたり、苦しい修行をしたり、大きな神殿を建てたりしても神の目に適う人間にはなれない。」と解釈してもよいかもしれません。

 今週は、以上の聖書箇所とは別に、『クリスチャンのための職業選択』という本を読みました。仕事にどう向き合うかが最近の悩みです。キリスト教的に「正解」となる仕事の方法を知ろうと、本書を読んだのですが、

行き先に正解を求めるのではなく、いつもどこに行っても主を信頼し、主がともにおられることが最良の人生であると知ることが、私たちの歩むべき道です。

と書かれていて、面食らってしまいました。「ただ一つの「正解」を求めて、懸命に努力する。そして、自分が素晴らしい人間になろうとする。」それは、とても素晴らしいことのように思えますが、どうも聖書は逆のことを述べている気がします。

 そろそろ梅雨明けが近づいてきましたね。今週も豊かな神様の祝福が皆様にあるように。お祈りしています。

6月を振り返って。

 日記を読み返してみると、6月は悩みの多い1ヶ月だった。少しのミスで、悩んだり、落ち込んだり、不安になったり、苛立ったり。

 そういう不安を抱える一方で、6月中は教会で、聖書の中にある列王記という書物を読んだ。列王記という書物には、イスラエルの没落が描かれている。その中で、ソロモンという王様の話が心に残った。

 列王記によれば、イスラエルは、ソロモンの時代に栄華を極めた。ソロモンは知恵に優れ、巧みな政策で国を繁栄させたと記されている。しかし、その後、ソロモンは、自分のためだけに金銭を蓄えるようになり、そして、神に背くようになる。

 ソロモンのような知性も、金銭も私にないけれど、ソロモンと同じ過ちが、私にもあると感じる。それは、「もっともっと」という過ちだ。必要以上の知識や冨や、承認を求めるという過ち。

 自分のことを振り返ると、目的もなく、不安や欲望に駆られて、必要以上の知識と、人からの承認を求めていたと気付く。

 学生時代の私は、多くの知識を得て、頭がよくなることを求めていた。その動機は、自分に自信がなく、不安だったからなのだが、その気持を「学びたい」、「好奇心」、「楽しい」、「自己実現」などの言葉で正当化していたのだと思う。

 ふと、そういう目標に、虚しさを覚えることがあった。「好奇心」や「学びたい」気持を否定するわけではない。しかし、少なくとも私の場合は、それだけを目的にすることに、とても、虚しさを覚え、疲れていた。

 本当は、そういう「自己実現」や「好奇心」に縛れる必要もない。「成功」や「幸せ」や「理想」という言葉に縛られる必要もない。信仰を持って、少しづつそのことを体感するようになった。

 今は、私の職業上、新しい技術や知識に触れることが多い。そうすると、昔のように高ぶりを覚えることがある。でも、その高ぶりに流される弱さは、自分の力では変えられない。ソロモンのように目的のない知恵や冨に溺れないように。必要のない知識や冨から遠ざけられるように。祈ろう。

 いわゆる「成功」、「幸せ」、「自己実現」、「好奇心」、「理想」その種の言葉で、私と同じように虚しさを覚える方に、どうぞ、神様の祝福がありますように。

6月5週目: 信じます。不信仰な私をお助けください。

 今週も終わる。蒸し暑さが増し、洗濯物の乾きが遅くなった気がする。入社してもう3ヶ月。時が経つのは本当早い。

 今週は、仕事で苛々することがあった。先輩からのアドバイスに苛立ちを感じた。先輩の指摘は、とても丁寧で正しいものだった。それでも、苛立ちを感じた。 

 仕事で苛立ちを感じるのは、自分の中心に仕事を置いているからか。「うまくやりたい」「成功したい」「これくらいできるはずだ」・・・そういう期待。そして、期待外れの現実に直面すると、苛々する。

 信仰をもった後、勉強や仕事を通して「自分が優秀である」と誇示しなくてよいこと、自分の弱さを鎧で固め、他者に承認を求めなくてよいことがわかった。私は、自分に残された人生の時間を、神様を中心に据えて過ごしたいと思う。

 なのに、現実には仕事や将来のことで苛々したり、不安になったりする。変わらぬ神の愛を信じたいと願っても、外の環境や感情の変化に惑わされるのが現実である。

 水曜日、いつも通り教会にいった。そういう悩みで頭がいっぱいだった。キリスト教徒にとって、私の悩みはよくあるようで、偶然にも、同じような仕事の不安について、話を聞く機会があった。

 帰り道、ふと、聖書の一節を思い出した。悪霊に取り憑かれたという息子を持つ父親が、イエスのもとに来て、助けを求める場面。

「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もしおできになるものなら、私達をあわれんで、お助けください。」

 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

(マルコの福音書9: 22-24)

「信じます。不信仰な私をお助けください。」あぁ、今の自分と同じ気持だと思った。すこしだけ、ほんの少しだけ、この言葉の意味がわかった気がした。

  仕事について不安や悩みを持つ方は、私だけではないでしょう。どうぞ、あなたにも神様の祝福がありますように。お祈りしています。

6月4週目:アホっぽい自意識

キリスト教徒として祈る時のはなし。最近、自分が祈ったことをメモに書いている。メモをみて、今週祈ったことをふりかえってみると・・・

 

  • 職場でうまくやりたい。
  • 誘惑から守ってほしい。
  • 礼拝の時間を守りたい(残業したくない)。エトセトラエトセトラ

 

あちゃー・・・。自分のことしか祈ってないぞ。私は「人ために祈りたいノダ!」と思ってたけど、真逆な感じ。とほほ。 

 形だけなら、人のために祈るのはカンタン。口で祈りの言葉を唱える。そうすると、「あぁ、私、祈っているなぁ。」という自意識に浸る。私が人のために祈る時、そういう自意識がないとは言えない。「あぁ、私、祈っているなぁ。⇒なんか、私、キリスト教徒っぽいわー。⇒なんか、私、ハッピー!」という、アホっぽい自意識。

 人のために祈ることのゴールが、「なんか、私、ハッピー!」なら、虚しい自己満足だと思う。では、自己満足ではない人のための祈りがあるかな?イジワルに考えると、なさそうな気がする。たとえば・・・

 

  1. 人は他人より自分の利益を優先して、行動する。
  2.  祈りは人の行動だ。
  3.  上記1、2より、人は他人より自分の利益を優先して、祈る

 

 もし、上記1が正しいなら、全ては自己満足のため。祈りも例外ではない。おわり。私はそこに、神の助けが必要だと考える。もしも、神が全能ならば、上記01の正しさをも、変えることができるからだ。自己満足ではない人のための祈りは、全能の助けの下で、ありうる。

  私の祈りがそうであれば、幸せだと思う。そして、そうであるように、神の助けを祈ろう。どうぞ、祈りが主の望むことでありますように。しかし、たとえそうでないとしても。そのことを受け入れることができますように。なにより、今日も、みなさまに神様の祝福がありますように。

6月3週目:静かに、静かに待つこと

 今週も水曜日の夜に教会に行きました。日曜日に比べて人が少なく、落ち着いた雰囲気。

 私の教会では聖書を読むことを大切にしています。その日も牧師から「みことばを聞くことは祈りより大事」という話がありました。「みことばを聞く」とは、たとえば、聖書を読んで、神の言葉を知ろうとすることを意味しています。

 自分の聖書の読み方を振り返ってみると・・・うーん。自信がない。自分勝手な読み方をしているかも。

 「神様の言葉を聞く」というのは劇的な感じがしますが、実際は、地道なことなのかもしれません。ゆっくり、ゆっくり。一定のリズムで聖書を読んでいく。分からない時は立ち止まる。人に聞いてみる。それでも、よくわからないことも多い。「結局、どうしろと?」と言いたくなる時があります。

 「そういう時は、確信が持てるまで待つことだ。」とも牧師は言いました。私は結果を焦る癖があります。はやく結果がほしいといつも思います。家族のこと、仕事のこと、勉強のこと。お金のこと、結婚のこと。「本当にこれでいいの?はやく答えが欲しいよ」と思います。

 でも、急いで決めなくてもいいんだね。焦っても問題は何も解決しない。待つことも私に必要な訓練なのかも。確信が持てない時は、待つ。静かに、静かに待つ。本当に大事なことのみを見つめて、聖書を読むことができますように。

6月2週目:お金の管理

今週、自分のメモや記録を見返していると、1ヶ月以上家計簿が継続したことに気づき、嬉しくなりました。お金の流れの記録を取ると「こんなに無駄遣いしていたのかぁ」と気がつきます。

家計簿といってもとても単純です。アプリや特殊な整理術を使いません。買物レシートエクセルに記録するだけ。ポイントは記録は週末にすること。平日は、ジッパー付きのファイルを用意します。そこに買い物レシートを入れていくだけです。週末にはレシートの内容を表に転記します。

入力をできるだけ簡単にするのがポイントです。品目と値段だけを書きます。簡潔にするポイントは以下のような感じ

  • 日付は書かない。月の何周目かだけを書く。(6月3週目など)
  • 品目は予め用意しない。その場で適当に考えます。(「食事」「文房具」など)
  • 1円単位で正確に入力しない。(100円以下は切り捨てなど)
  • 似たレシートはその場で大雑把に足して入力。(消しゴム : 95円」と「鉛筆 : 121円」なら「文房具: 200円」)

例を示すと以下のような感じです。

月週 品目 値段
6月2週 土日の食事 3000
文房具 400
チャージ 1000

やってみると、「無駄なお金を使っているなぁ」と思いました。たとえば、毎日カフェで勉強すると、毎週数千円使っています。通信費も意外に高い。格安sim+simフリースマホの導入を検討しています。

ちなみに家計簿は、以下の本を参考しました。高校の家庭科の先生が書いた本です。

南野 忠晴, 『シアワセなお金の使い方』

また、カードや口座の出入りを管理するアプリも友人に教えてもらいました。

家計簿アプリ・家計簿ソフト「マネーフォワード」

5月を振り返って : 苦しさの中にある人に。

 博士課程在籍の友人から研究が大変だという話を聞く。私は、研究者としては挫折したのだが、その時のことを思い出していた。

 辛い時は、うずくまることしかできないこともある。私のちっぽけな経験で語れることは少ないけれど。自分を責めることしかできないこともある。

  「自分を責めても意味ない」と人は言うかもしれない。でも、そんなこと。自分が一番よくわかっているよね。わかっていても、体が動かないときがある。

 本当はもっとこうしたかったのに。本当はもっとできるはずなのに。不全感に悩む。

  建設的な努力をしようと思っても、体が動かないときがある。そうしてベッドの上で一日過ごすときがある。 

 私が、とても苦しかった時。毎週、教会に通っていた。進まない研究と自己嫌悪を抱えながら。

 毎週、死にそうな顔をしていたと思う。自分の悩みを話すこともできなかった。それでも、通い続けたのは、少しだけ、元気をもらえる気がするからだ。気がするという程度。 

 ちょっとした会話。静かな雰囲気。みんなで歌う賛美歌。そういうものから、少しだけ元気をもらって帰る。次に教会に行くまで生きていられるだけの、ギリギリの希望、元気、活力。 

 とても困難に立ち向かえる程ではない。大きな仕事を成し遂げられる程ではない。でも、とりあえず1日立っているのに必要な元気。

  あなたの生きる力はどこからやってくるだろう?私の場合は、それがたまたま教会だっただけ。

 今、立っているだけで精一杯な人。いつ立ち上がれるか不安で不安でたまらない人。あぁ、どうか。今はそれでいい。

  自分の中から力を振り絞る必要はないのだ。ただ、明日1日を生きる力が与えられるように。祈っています。