6月4週目:アホっぽい自意識
キリスト教徒として祈る時のはなし。最近、自分が祈ったことをメモに書いている。メモをみて、今週祈ったことをふりかえってみると・・・
- 職場でうまくやりたい。
- 誘惑から守ってほしい。
- 礼拝の時間を守りたい(残業したくない)。エトセトラエトセトラ
あちゃー・・・。自分のことしか祈ってないぞ。私は「人ために祈りたいノダ!」と思ってたけど、真逆な感じ。とほほ。
形だけなら、人のために祈るのはカンタン。口で祈りの言葉を唱える。そうすると、「あぁ、私、祈っているなぁ。」という自意識に浸る。私が人のために祈る時、そういう自意識がないとは言えない。「あぁ、私、祈っているなぁ。⇒なんか、私、キリスト教徒っぽいわー。⇒なんか、私、ハッピー!」という、アホっぽい自意識。
人のために祈ることのゴールが、「なんか、私、ハッピー!」なら、虚しい自己満足だと思う。では、自己満足ではない人のための祈りがあるかな?イジワルに考えると、なさそうな気がする。たとえば・・・
- 人は他人より自分の利益を優先して、行動する。
- 祈りは人の行動だ。
- 上記1、2より、人は他人より自分の利益を優先して、祈る
もし、上記1が正しいなら、全ては自己満足のため。祈りも例外ではない。おわり。私はそこに、神の助けが必要だと考える。もしも、神が全能ならば、上記01の正しさをも、変えることができるからだ。自己満足ではない人のための祈りは、全能の助けの下で、ありうる。
私の祈りがそうであれば、幸せだと思う。そして、そうであるように、神の助けを祈ろう。どうぞ、祈りが主の望むことでありますように。しかし、たとえそうでないとしても。そのことを受け入れることができますように。なにより、今日も、みなさまに神様の祝福がありますように。