8月4週目: 種まき

 今週は夏休みなどが重なり、3日しか働きませんでした。休みの日には、出かけることもなく家でダラダラしていました。駄目人間まっしぐらです。ポテトチップスのおいしいこと、おいしいこと。
 
 それでも今週一週間で嬉しいことがありました。新しく始めた習慣が続いているのです。英語とコンピュータプログラミングの勉強を一週間続けることができました。といっても、馬鹿みたいに小さなことしかしていません。1日5分だけです。5分間は、よくわからなくても、とにかく手を動かしています。「やったぞ!」というアリバイ作りをしているような感じです。
 
 こんなに小さなことでも、毎日続けられることがあるのはとても嬉しいと感じます。習慣は種のようなものだと思うからです。芽吹いた種は、希望です。大切に育ててあげたいと思います。無理に引っ張ったり、大きくしようとする必要はないと思うのです。成長させるのは、私ではなく、太陽と神様です。焦らず、喜んで、種を撒きましょー。
 
『わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。』 コリント人への第一の手紙3章1~9節 

8月2週目,3週目: 遣えて生きる?

 8月も、もう下旬。昼はまだまだ暑いけれど夜はすっかり涼しくなりました。もう秋が近いのですね。


  先週から会社は夏休みです。私は、実家に帰省し、地元の友人や家族に会うことができました。久しぶりに彼らと話をする中で、以前はあまり気にならなかったことが気になりました。

 

 それは、 「自分のできることは限られているなぁ」ということです。 というのも、友人達や家族ががんばっている話を聞きとても励まされた一方で、彼らの悩みも聞きました。その悩みを聞いて、「自分が彼らのためにできることはとても限られているなぁ」と感じました。

 

 勉強や研究を代わってあげることはできないし。代りに年老いてあげることもできません。 複雑な人間関係や長年の習慣や性格を変えるには長い時間がかかりそうです。自分の人生さえ侭ならないように私には思えるのに。人が抱える問題を私が解決できるなどと、おこがましいかもしれません。


 それでも、人を愛し人に遣えて生きるキリスト教徒の生き方とは、どのようなものなのでしょうか。まだ答えがわからず、もやもやとしています。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ福音書15章13節)

 

 願わくば、来週も一つ一つ誠実に役割を果たしていけるように。皆様の上にも、豊かな神様の祝福がありますように。

8月1週目:馬鹿みたいに小さな一歩から。

 7月、新しいプログラミング言語や数学の勉強を始めようとしたのですが・・・。 結局、怠けて辞めてしまいました。とほほ。

 今振り返ってみれば、その原因は、目標を高く設定しすぎたり、必要ないことを学ぼうとしたことです。もしも「これって本当に必要かな?」と考えていれば、今回の失敗は防げたかもしれませんね。 「勉強」や「成長」という言葉に対して疑問を抱かない癖が、自分にはあるのかもしれません。

 新しいことを始める時、「なぜそんなことをするんだろう?」と自分に問いかけるのは悪いことではない気がします。たとえ、それが自分にとって「最善だ!」と信じていることであっても。(自分にダメ出しする必要もないけれど)

 勉強の目的って何でしょうね?私の場合、キリスト教徒になってから、自分のために特別なことをする必要はないんだなと思うようになりました。自分の「成長」のために、自分の「幸せ」のために、自分の「楽しみ」のために、自分が「何者か」になろうとしなくてもよい。そう思うと、以前よりも勉強が楽しくなった気がします。

 だから、高い目標を持ってしんどくなるのも辞めましょう。 その代わり、新しいことを始めようとする時は、馬鹿みたいに小さな一歩から始めよう。ほんとに笑っちゃうぐらい小さなことから。周り道をしたり、いつもとは違う順序で作業をしてみたり。高い目標だけをみつめるのではなく、 馬鹿みたいに小さなことを、楽しんで続けてみよう。

 さぁ、今月も馬鹿みたいに小さな一歩を踏み出すぞー。わははは!

7月4週目: たのしい音声入力

 今週、はじめてスマホの音声入力を使いました。思ったよりもずっと高い精度で入力されており、手早く文章を書けることに驚きました。長文だと、キーボード入力より早く文章を書けますね。誤変換を修正する手間を考えると、文章を書く時間はそんなに減らないのですが。それでも、音声入力は「書き始める」手間を省いてくれます。

 文章を書くために最も重要なのは、「とにかく書き始める」ことです。
 ところが、スタートさせるのは、容易なことではありません。書き始めようとしても、非常に大きな慣性が働くのです。ニュートン慣性の法則は、「止まっている物体を動かすには、力が必要」と言っていますが、それと同じことです。
 しかし、音声入力を用いると、この関門を突破することができます。つまり、「出発」することが簡単にできます。なぜなら、思いついたことをしゃべるだけで文章が出てくるからです。(野口悠紀雄、『話すだけで書ける究極の文章法』)

  布団の中で寝転がりながら、歩きながら文章を書けるのは、とても楽ですね。それにしても、話した言葉が文章になるのはとても楽しい。ゲーテカエサルが行った口述筆記は楽しかったんだろうなぁ。私の場合、特に、祈りの言葉が文字になるのは楽しい。後から自分の祈ったことを見直すことができるのはとてもよい振返りになっています。

7月3週目 : わかりやすい文章とキリスト教信仰

 私は、現在、教会の高校生に小論文の書き方を指導しています。その経験を通して文書の書き方を人に教えるのはとても難しいと感じています。そもそも人に教える以前に、自分は文章を書けているのか不安になります。
 
 小論文試験では論理的な文章を書くことが求められます。市販されている小論文対策の参考書では、型通り書くことを教えるものが多いです。私も彼に指導をする時は書き方の型を教えます。
 
 というのも、人に文章の書き方を教える時に型や形式は大事だと私は感じているからです。たとえば、「わかりやすく書け」とか「相手に伝わるように書け」と言われても、なかなか書けません。そうではなくて、最初は形式に当てはめて書く指導をします。たとえば、『第一に◯◯と考える』という文の◯◯の部分を埋めさせます。そうすると、迷いながらでも自分で書けるようです。文書指導する上で形式はよい道具となってくれそうですね。
 
 しかし、型は一つの道具です。その型を使う目的が大事ですよね。私が型を使う目的は、わかりやすい文章の書き方を教えることです。つまり、読者が読んで理解しやすい文章、読者を惑わさない文章を書けるようになってほしいと願っています。
 
 ところで、わかりやすい文章を書こうとする時、以下の結城浩さんのtweetをいつも思い出します。
 
 
 わかりやすい文章を書くことで、読者の時間を節約する。それは小さな愛の実践なのかもしれません。もしそうならば、理解しやすい文章を書くことはキリスト教徒としても大事だと言えるかもしれませんね。どうぞ彼の受験勉強が無事に守られますように。
 
 

7月2週目 : 「わかったつもり」と効率

 仕事で技術文書を読むときの話。仕事で読む技術文書はよく整理されており、その技術の本質が掴めることも多い。一方で「わかったつもり」になることがある。
 「わかったつもり」とは技術を言葉だけで説明して満足すること。例えば、「これって結局、◯◯ってことでしょ?」「◯◯が本質なんでしょ?」とか。効率や成果を求めるなら、「わかったつもり」は避けられない。しかし、それだけで誠実な仕事ができるだろうか。私にはよくわからず迷っている。ただ、自分にできることとできないことを明確に区別したい。
 どうすれば、「わかったつもり」を避けられるだろう。対策として一つのことを時間を気にせず納得いくまで学んでみようと考えている。たとえば、あるアルゴリズムを実際に実装して、数学的な背景をきちんと理解する。とても時間がかかるしそんなことで、仕事に影響はないだろう。それでも、「わかったつもり」を避けることはできないだろうか。ヒントだけでもつかめないだろうか。
 そう考えて、7月はEMアルゴリズムというアルゴリズムを勉強しなおしている。地道に一歩づつ、一歩づつ。ただ、自分のなすべきことをなせますように。主が、私の傲慢や思い上がりを打ち砕いてくださいますように。

7月1週目: 歩むべき道

 今週は、少し忙しい一週間でした。特に、火曜日はバタバタしました。研修の日でしたが、当日まで宿題をしておらず・・・。出発直前まで作業をしても、終わりませんでした。通勤途中に電車の中で祈ってみました。気分的には少し落ち着いた気がします。結局、到着駅のホームベンチで作業をした後、とても中途半端な出来の宿題を提出しました。

 また、今週から聖書の「ガラテヤ人への手紙」を読んでいます。その手紙の内容は、「律法(という旧約聖書に書かれたの規則)によっては、人は神様に義と認められない。」というものです。言い換えると、「お金を納めたり、苦しい修行をしたり、大きな神殿を建てたりしても神の目に適う人間にはなれない。」と解釈してもよいかもしれません。

 今週は、以上の聖書箇所とは別に、『クリスチャンのための職業選択』という本を読みました。仕事にどう向き合うかが最近の悩みです。キリスト教的に「正解」となる仕事の方法を知ろうと、本書を読んだのですが、

行き先に正解を求めるのではなく、いつもどこに行っても主を信頼し、主がともにおられることが最良の人生であると知ることが、私たちの歩むべき道です。

と書かれていて、面食らってしまいました。「ただ一つの「正解」を求めて、懸命に努力する。そして、自分が素晴らしい人間になろうとする。」それは、とても素晴らしいことのように思えますが、どうも聖書は逆のことを述べている気がします。

 そろそろ梅雨明けが近づいてきましたね。今週も豊かな神様の祝福が皆様にあるように。お祈りしています。