10月2周目:群盲象を撫でる

 今週の月曜日は、お仕事がお休みで買い物に行きました。買い物を終え、ふと、立ち寄った映画館で『三度目の殺人』という映画を観ました。

 物語の主人公は、福山雅治が演じる弁護士の重盛です。ある日、重盛は、司法修習生時代の同期・摂津から三隅という容疑者の弁護を頼まれます。三隅は強盗殺人の容疑者です。この三隅は、従業員として働いていた工場の金に手をつけ、クビになります。その後、彼は、金を奪う目的で工場の雇い主を殺害した容疑で逮捕されました。摂津は、その容疑者・三隅の発言が二転三転するために、重盛に助けを求めたのです。

 「発言が二点三点」するとは、たとえば、初めて三隅と重盛が面会した時に、次のような会話があります。

重盛は助け船を出した。

「殺そうと思ったのは、お酒を飲む前?それとも飲んでヤケになっちゃって?」

三隅はしばらく考えるようになった顔になったが、すぐに重盛の"絵"に乗ってきた。

「飲んでヤケになって」

これで少なくとも計画的な犯行ではないと印象づけられる、と重盛はさらに訪ねようとしたが摂津が「あれ?」と声をあげた。

「全開聞いた時は"前から殺してやろうと思ってた"っていわなかったっけ?」

すると三隅は困惑を浮かべて首をひねった。

「あ・・・・・・そうだったかな?」

摂津はチラリと重盛に視線を送った。その目は"な? こういうことなんだよ"と語っていた。

 物語を通して、重盛は、三隅のこのような発言に振り回されます。三隅は本当に殺人を犯したのか。なぜ殺人を犯したのか。情報を集めるほど、当初は平凡に思えた事件の全体像が重盛にはわからなくなります。さらに、三隅とのやり取りや事件の調査を通して、重盛自身の職業観や正義感や家族観も揺らぎはじめます。

 物語の中で、特に印象に残ったのは、「群盲像を撫でる」という言葉でした。物語の中盤には、被害者の家族についての重要な事実が発覚します。被害者の娘・咲江が自分の家族の中で起こった出来事を重盛に打ち明けたのです。重盛は、咲江の証言を踏まえてもう一度事件全体を整理します。その日、重盛と摂津の間で次のようなやり取りがあります。

「あのさ、中国だったかどこだったかのさ、古い小話で、目の見えない人たちがみんなで象に触るっていう話があるんだけどさ」

「ああ、鼻に触ったヤツと耳に触ったヤツが、自分のほうが正しいって言い争う話しだろ」

[・・・中略・・・]

「そう、それそれ」と摂津がいって、ぼそりとつぶやいた。

「今、おまえ、なんかそんな気分じゃない?」

「そうかもな。で、俺は今、どこ触ってんだろうな」

そういって重盛は目を閉じた。闇のなかに手を伸ばして、見えない動物を触っている。

「裁いたのか、救ったのか」

重盛は弁護になって初めて、事件を"理解"できずにいることを自覚していた。

"群盲象を撫でる"というのは、目の見えない人達が象の足や鼻、耳をそれぞれ触って異なった解釈をするというものです。物事や人物の一部だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまうことのたとえですね。この物語は、この言葉がテーマになっていると感じました。

 物語の終盤、重盛は、咲江の証言を得て「三隅は咲江を救うために、咲江の父親を殺した」という確信を強めます。三隅の罪に対する判決の後、重盛は自分の確信を三隅に話します。しかし、三隅の反応は空疎で、彼の表情からは何も感じ取ることができませんでした。三隅と重盛の最後のやり取りの一部は、次のようなものでした。

 だが重盛は必死ですがりつきたくなる衝動と戦っていた。ひとり相撲だったというのか。突き放そうとしているのか。本当に三隅は殺人の衝動を生まれつき持った狂人なのか。それとも殺人の罪をかぶっただけ男なのか。

重盛は確認せずにはいられなかった。

「それは、つまり、僕がそう思いたいだけってことですか?」

「だめですよ、重盛さん・・・・・・」

そういって三隅は小さく鼻で笑ってから楽しげに続けた。

「僕みたいな人殺しに、そんなことを期待しても」

 この映画を観終わった後も、まだすっきりしませんでした。この映画の感想を無理やり言葉にしてみると、「わかったつもりになる」ということの怖さが思い浮かびます。普段の生活の中で「これでわかった!」と確信を持つことがあります。私だったら、キリスト教信仰において、人間関係において、仕事において「わかった」と確信を持つことがあります。特に「この人は◯◯だから」と人を分類することがよくあります。一体、この種の「わかったつもり」とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。

 せめて、自分の「わかったつもり」があなたを傷つけることのないように祈っています。