9月3週目:言葉が届きますように

 9月も終わりが近づき、そろそろ10月です。随分と涼しくなりましたね。今週は、私にとって疲れた一週間でした。肉体的な疲労よりも精神的な疲労を感じました。というのも、私は、相手の表情や振る舞いから相手が何を考えているのかを読みとろうとしてエネルギーを使って疲弊する癖があります。

 たとえば、職場で先輩が、がっかりした顔をしたり溜息をつくと「期待を裏切ってしまった!」とか「自分が何か失敗をしてしまったのかな?」と思います。そして感情が揺さぶられてぐったり疲れます。小さなことに過敏だと言ってもいいかもしれませんね。今週は、その種の徒労感を覚えてぐったりしてしました。こういう時は神様に祈ることにしましょうね。

 また、今週は、村山由佳さんの『放蕩記』を読みました。母親のモラルハラスメントを受けて育った夏帆という女性のお話です。お話の中で、夏帆の回想を通して、強烈なキャラクターの母親が描かれます。この母親・美紀子は、村山さんの母親がモデルだそうです。村山さん本人のお話によると、「(美紀子のセリフとして)書いてあることで彼女(村山さんの母)が言ったことのないセリフはただの一つもないです。」ということです。

 私にとって印象に残ったのは、夏帆の母親の美紀子がキリスト教徒だということです。中学生の夏帆が漫画を万引きした時に、母の美紀子が取り乱して十字架を握りながら血を吐くほどの強さで神に赦しを請います。夏帆はそんな美紀子を冷ややかに見つめます。

 美紀子は、まだ泣き続けている。時折、神様、という言葉が口からもれる。

 犯した罪は深刻に違いないのに、夏帆には母の言動があまりにも芝居がかって見え、そのせいで、ことの重大さも真摯な反省の気持も、正直なところどこかへすっとんでしまっていた。*1

 この部分を読んで私は心が痛くなりました。私もキリスト教徒なのですが、なんだか、自分に向けて言われたように感じました。「結局、あなたもキリスト教徒というお芝居をしているのではないの?」「あなたの信仰は思いこみではないの?」と言われている気がしたのです。この種の問に私はどのように答えればよいのでしょう。うーむ。

 ところで、文学を読む時、他の人が読んでもどうも思わないような一文に自分だけは動かされるということがありますよね。虚構の物語が、現実の自分を動かすというのは不思議だなぁと感じます。この不思議さと関係するのかは分かりませんが、村山由佳さんが文学について語っていたことが印象に残りました。

モラルだとか、人がかけてくれる暖かい言葉だとか、「あなたのためよ」って言って助言をしてくれるような人の言葉では救われない傷というものがこの世には、たくさんあって、そういう傷にはたぶん、フィクションでしか手が届かないからなんです。[・・・中略・・・]文学でしか、手の届かない心の領域というものは、あると思います。

 とても辛い経験をした方にお会いする時、「この人にどういう言葉をかけてあげればいいんだろう」と戸惑うことがあります。自分の経験は限られています。理解できることも限られています。どれだけ私が言葉をかけてもその人を癒やすことはできないでしょう。そういう傷に届く言葉(文学)があるのならば、それは素晴らしいことだと思うのです。

 どうぞ、苦しい経験の中にあってもあなたに神様の助けがありますように。新しい一週間も神様の豊かな祝福がありますように。

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*1:村山由佳,『放蕩記』, p.202, 集英社, 東京, 2014